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この記事の目次
- 1ページ目
- 誕生と物心ついた時に起こった右目失明
- 幼名は梵天丸、「独眼竜」との異名を持つきっかけとは?
- 独眼竜の異名の由来は李克用
- 十代で家督・奥州支配・20年遅れの英雄
- 1579(天正7)年13歳:正室の愛姫を迎える
- 2ページ目
- 1587(天正15)年12月:豊臣秀吉は私戦禁止令を発令
- 小田原攻め遅参のピンチ!秀吉に見せた技
- 千利休に茶を習いたいと訴える伊達政宗
- 「伊達もの」の由来は朝鮮出兵
- 1593(文禄2)年に朝鮮出兵(文禄の役)
- 秀次事件を切り抜け関ヶ原は東軍に
- 3ページ目
- 石田三成と伊達政宗の関係性
- 先見の明!ヨーロッパに支倉常長を派遣
- 伊達政宗は石巻にて艦を建造
- 大阪の陣で見せた活躍
- 平和な時代に嗜んだ料理
- 仙台名物「ずんだ餅」
- 4ページ目
- 教養人しての顔ももっていた伊達政宗
- 三日月の兜・タバコなど政宗に関するエピソード
- 徳川家光との関係性
- 伊達政宗の最期
- 番外:スターウォーズに登場するダース・ベイダーのモデルに政宗
- 戦国時代ライターSoyokazeの独り言
1587(天正15)年12月:豊臣秀吉は私戦禁止令を発令
戦いと交渉の中、父・輝宗が途中で殺害され、政宗は一時窮地に追い込まれますが、やがて盛り返していきます。1587(天正15)年12月になると、関白となっていた豊臣秀吉が、私戦禁止令を伊達家と関東の北条家に発令します。しかし政宗はこれを拒否。以降2年間の間に、現在の福島県の中通り・会津、山形県の置賜、宮城県南部を勢力下に。周辺の小領主も政宗の支配下に置きました。
小田原攻め遅参のピンチ!秀吉に見せた技
中央の秀吉政権を無視して独自の勢力を広げて行った政宗ですが、ついに秀吉からの強い命令が下ります。1590(天正18)年に、秀吉は小田原の北条家を討つべく関東に向けて大軍を率いて出陣。この軍に参陣し秀吉の傘下に入るか、小田原の北条氏と共に戦うかの選択に迫られます。
圧倒的な軍事力の前に政宗は秀吉に従うことを決意。ところが秀吉側からはすでに政宗に対して不信感を持っていました。政宗は私戦禁止令(惣無事令)を破っており、以降も戦いを続けていたことから、秀吉の腹の内では北条とは別に伊達討伐も考えていました。
しかし前田利家らの取り成しがあり、また小田原と対峙するさいに、若く勢いのある伊達と敵対することを秀吉が避けたとも伝わります。
千利休に茶を習いたいと訴える伊達政宗
とはいえ、遅参したこともあり厳しい結果を生む可能性がある状況。ここで政宗は一計を案じ、政宗は秀吉との面会時に死に装束で現れます。そしてその覚悟を伝える一方で、千利休に茶を習いたいと訴えました。それを見た秀吉が感嘆します。政宗は秀吉の傘下に入ると、まもなく小田原の北条家は滅亡。秀吉はついに天下を統一します。この際政宗は一部の領土が召し上げられたものの、72万石を安堵されました。
「伊達もの」の由来は朝鮮出兵
秀吉政権下に入った政宗は、1591(天正19)年に早くもピンチを迎えます。秀吉の奥州仕置により改易された、葛西・大崎の旧臣が葛西大崎一揆と呼ばれる反乱を起こします。この一揆は政宗が平定しますが、実は政宗が一揆を扇動したという情報が流れます。
詰問を受けた政宗は京都に上洛、扇動などは行っていないと弁明します。このときも政宗は死に装束。加えて黄金の磔柱を先頭にするという「奇策」が功を奏して疑いが晴れます。58万石に厳封されたものの、代りに秀吉が使っていた羽柴の苗字を与えられました。
1593(文禄2)年に朝鮮出兵(文禄の役)
1593(文禄2)年には朝鮮出兵(文禄の役)が開始され、秀吉の命により政宗も出陣することになります。そして3000(1500とも)の兵を奥州から攻撃の拠点・北部九州に向けて発進させました。ところが、その際の装束が大変派手で、絢爛豪華な装束に身を包んだ部隊との記録があります。多軍勢との違いに京都などの住民が歓声を上げたほど。そのため派手な装いをする人たちを「伊達もの」と呼ぶようになりました。
そして政宗はそのいでたちだけではありません。遠方から来たため、本来免除されていた普請などを積極的に行う活躍を見せます。ちなみに2度目の慶長の役について、政宗は参陣しませんでした。
秀次事件を切り抜け関ヶ原は東軍に
政宗は、天下統一直前に秀吉政権下に入ったため、政権内での地位は低かったのですが、秀吉に代って関白となった豊臣秀次とは親しい関係を築いていました。ところがこれが仇となります。秀次が秀吉から謀反の疑いを掛けられ切腹させられました。そのため親しい政宗も関与が疑われてしまい、伊予への減封も検討されます。
しかし伊達家の家臣による直訴のおかげで赦免されました。このとき重臣19名の連署で政宗が謀反の疑いがあれば隠居させられるという誓約を交わされます。それだけ政宗を怖れていた豊臣政権ともいえましょう。
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