伊達政宗とはどんな人?生い立ちから最期、性格などすべて丸わかり!


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伊達政宗とはどんな人?(1P目)

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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1587(天正15)年12月:豊臣秀吉は私戦禁止令を発令

豊臣秀吉 戦国時代

 

戦いと交渉の中、父・輝宗が途中で殺害され、政宗は一時窮地に追い込まれますが、やがて盛り返していきます。1587(天正15)年12月になると、関白となっていた豊臣秀吉(とよとみひでよし)が、私戦禁止令を伊達家と関東の北条家に発令します。しかし政宗はこれを拒否。以降2年間の間に、現在の福島県の中通り・会津、山形県の置賜、宮城県南部を勢力下に。周辺の小領主も政宗の支配下に置きました。

 

小田原攻め遅参のピンチ!秀吉に見せた技

足軽a-モブ(兵士)

 

中央の秀吉政権を無視して独自の勢力を広げて行った政宗ですが、ついに秀吉からの強い命令が下ります。1590(天正18)年に、秀吉は小田原の北条家を討つべく関東に向けて大軍を率いて出陣。この軍に参陣し秀吉の傘下に入るか、小田原の北条氏と共に戦うかの選択に迫られます。

 

圧倒的な軍事力の前に政宗は秀吉に従うことを決意。ところが秀吉側からはすでに政宗に対して不信感を持っていました。政宗は私戦禁止令(惣無事令)を破っており、以降も戦いを続けていたことから、秀吉の腹の内では北条とは別に伊達討伐も考えていました。

 

前田利家

 

しかし前田利家(まえだとしいえ)らの取り成しがあり、また小田原と対峙するさいに、若く勢いのある伊達と敵対することを秀吉が避けたとも伝わります。

 

千利休に茶を習いたいと訴える伊達政宗

千利休

 

とはいえ、遅参したこともあり厳しい結果を生む可能性がある状況。ここで政宗は一計を案じ、政宗は秀吉との面会時に死に装束で現れます。そしてその覚悟を伝える一方で、千利休(せんのりきゅう)に茶を習いたいと訴えました。それを見た秀吉が感嘆します。政宗は秀吉の傘下に入ると、まもなく小田原の北条家は滅亡。秀吉はついに天下を統一します。この際政宗は一部の領土が召し上げられたものの、72万石を安堵されました。

 

「伊達もの」の由来は朝鮮出兵

戦場で活躍する伊達政宗

 

秀吉政権下に入った政宗は、1591(天正19)年に早くもピンチを迎えます。秀吉の奥州仕置により改易された、葛西・大崎の旧臣が葛西大崎一揆と呼ばれる反乱を起こします。この一揆は政宗が平定しますが、実は政宗が一揆を扇動したという情報が流れます。

 

詰問を受けた政宗は京都に上洛、扇動などは行っていないと弁明します。このときも政宗は死に装束。加えて黄金の磔柱を先頭にするという「奇策」が功を奏して疑いが晴れます。58万石に厳封されたものの、代りに秀吉が使っていた羽柴の苗字を与えられました。

 

1593(文禄2)年に朝鮮出兵(文禄の役)

 

1593(文禄2)年には朝鮮出兵(文禄の役(ぶんろくのえき))が開始され、秀吉の命により政宗も出陣することになります。そして3000(1500とも)の兵を奥州から攻撃の拠点・北部九州に向けて発進させました。ところが、その際の装束が大変派手で、絢爛豪華な装束に身を包んだ部隊との記録があります。多軍勢との違いに京都などの住民が歓声を上げたほど。そのため派手な装いをする人たちを「伊達もの」と呼ぶようになりました。

 

そして政宗はそのいでたちだけではありません。遠方から来たため、本来免除されていた普請などを積極的に行う活躍を見せます。ちなみに2度目の慶長の役について、政宗は参陣しませんでした。

 

秀次事件を切り抜け関ヶ原は東軍に

 

政宗は、天下統一直前に秀吉政権下に入ったため、政権内での地位は低かったのですが、秀吉に代って関白となった豊臣秀次(とよとみひでつぐ)とは親しい関係を築いていました。ところがこれが仇となります。秀次が秀吉から謀反の疑いを掛けられ切腹させられました。そのため親しい政宗も関与が疑われてしまい、伊予への減封も検討されます。

 

しかし伊達家の家臣による直訴のおかげで赦免されました。このとき重臣19名の連署で政宗が謀反の疑いがあれば隠居させられるという誓約を交わされます。それだけ政宗を怖れていた豊臣政権ともいえましょう。

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Soyokaze

Soyokaze

ライター自己紹介: 旧石器から現代史、日本、中国、西洋とどの歴史にも興味があります。 小学生のころから歴史に興味があり、歴史上の偉人伝を呼んだり、 NHKの大河ドラマを見たりして歴史に興味を持ちます。 日本のあらゆる歴史に興味を持ち、旧石器や縄文・神話の時代から戦後の日本までどの時代も対応可能。 また中国の通史を一通り読み西洋や東南アジア、南米に至るまで世界の歴史に興味があります。 最近は、行く機会の多いもののまだあまり知られていない東南アジア諸国の歴史にはまっています。 好きな歴史人物: 蘇我入鹿、明智光秀、石田三成、柳沢吉保、田沼意次(一般的に悪役になっている人たち)、溥儀、陳国峻(ベトナムの将軍)、タークシン(タイの大王) 何か一言: 勝者が歴史を書くので、歴史上悪役とされた敗者・人物は本当は悪者では無いと言ったところに興味を持っています。

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