曹操は小さな部隊長から身を興した人物であり、全て率先垂範でないと部下がついてきませんでした。このような事情で曹操は随分と無茶をして前線に立ち、命の危機に陥ったのも一度や二度ではありません。
そんな曹操のボディーガードだった許褚は曹操のピンチを何度も救い、魏の建国に計り知れない貢献をした人物でした。
この記事の目次
最初からプロレスラーのような体格の許褚
許褚は字を仲康と言い、豫洲礁国礁県の人で曹操とは同郷です。許チョの身長は8尺(184㎝)、ウエストは5尺(120㎝)もあるという相撲取りかプロレスラーのような巨体で見るからに強そうな顔をしていて怪力の持ち主でした。
黄巾の乱が発生し礁県にも賊が迫ると、許褚はリーダーとして宗族数千家を集めて共に塁壁を固めて自衛します。ある時、汝南葛陂の賊1万余りが許褚の塁壁を攻めた時には、敵の数は多く、許褚の手勢は少なくて敵わず、奮戦して疲労がピークに達します。
それでも許褚は兵器と矢石が尽きると城内の男女に湯呑み大の石を集めさせて城壁の四隅に置き、この石を力に任せてぶん投げ、当たるを幸いに全てを粉砕したので賊は、敢えて進みませんでした。
牛と力比べで勝つ許チョ
賊の包囲が長引き、食料が欠乏すると許褚は城内の牛を賊に与えて食料と交換しました。
牛がいるくらいですから、完全に食糧が尽きたわけではなく穀物が減ってきたんでしょうね。しかし、籠城している相手の牛と穀物を交換するのに応じるとは、葛陂の賊は何のために包囲しているのか不明です。
それはともかく許褚が牛を引っ張ってきて、賊に引き渡すと牛は賊を恐れて逃げ出してしまいました。ここで許褚は牛を追いかけてその尻尾を掴み、片手で100歩以上も牛を引きずってきたのです。
葛陂の賊は牛と片手で力比べをして勝ってしまった許褚を見て仰天し、牛を受け取らずに逃げてしまいました。この一件で許褚の勇名は淮南、汝南、陳、梁で広がり賊は許褚を恐れたそうです。
曹操の配下となる許チョ
曹操が、淮南・汝南地域を巡った時、許褚は手勢を率いて曹操に帰順します。曹操は一目許褚を見て、命知らずの勇者と見抜き「これは我が樊噲である」とベタ褒めして即日都尉に任命して自分のボディーガードとし許褚に従っていた侠客を皆、虎士として許褚の配下として置きました。
その後許褚は、張繍征伐に従い先陣して首を斬る事万人で校尉に昇進しています。
徐他を成敗し曹操の危機を救う許チョ
建安5年(西暦200年)許褚は官渡の戦いに従軍します。この頃、曹操の近辺を守っていた従士の徐他のグループは袁紹に買収され、密かに曹操の命を狙っていましたが、常に許褚が近くにいるので計画を実行できませんでした。
そこで、許褚が休日を取った日を狙い、刀を手に幕舎に入りますが、許褚はその日、何故か胸騒ぎがしてならず、休暇を取りやめて幕舎に戻ります。休日で不在のはずの許褚が、幕舎にいるのを見た徐他はビックリして顔色を変えました。
これを見て胸騒ぎの正体を知った許褚は徐他のグループを殺害し曹操の窮地を救います。曹操は、それを聞いて許褚を増々信頼し、出入りに同行させて左右から離さなかったそうです。その後、許褚は鄴の攻囲戦に手柄を立てて爵関内侯を賜りました。
潼関で馬超の奇襲から曹操を救う許褚
西暦211年、許褚は曹操に叛いた馬超と韓遂の関中軍閥を討伐する為に潼関の戦いに従軍します。ここでは、曹操が黄河を北に渡って関中軍閥を叩こうとし、先に精鋭を渡河させて曹操が殿を務める事になりました。そして、全ての将兵が黄河を渡り終え残るは曹操と許褚、虎士百名あまりになった時に、最悪のタイミングで馬超の騎兵が曹操に襲い掛かったのです。
雨のように降り注ぐ矢に曹操軍は大混乱しますが、許褚は冷静に曹操を僅か1隻残った舟に放り込むと自らも舟に乗り込みました。しかし、たった一隻の舟には我も我もと虎士が乗り込もうとし、その重さで沈没寸前となります。そこで許褚は鬼の形相で、舟に上ろうとする味方を斬り捨て左手で馬の鞍を掲げて曹操を矢から守りました。
この後、運悪く船頭まで流れ矢に当たり死亡すると、許褚は自分の身を守る事なく、左手で曹操を矢から庇い、右手で舵を切り、何とか北岸に辿り着く事に成功します。さすがの曹操も、この時ばかりは許褚がいなければもうダメだという危機一髪でした。
馬超を睨みつけビビらせる
潼関の戦いは、その後膠着状態に陥り曹操は馬超や韓遂と単騎で会談する事になります。誰も供はつけない曹操ですが許褚だけは万が一の為に率いていました。
馬超は自身の武力と勇気を自負していたので、隙を見て曹操を刺そうと考えていましたが、かねて許褚の武勇を聞いていたので、曹操の隣にいるデカブツが、その許褚ではないかと疑いました。
そこで、「公には虎侯なる者がいると聞くが、いずこにいます?」と聞くと曹操は顧みて許褚を指さしました。許褚は目を瞋らせて馬超を睨み、その形相の凄まじさにビビった馬超は曹操に手出し出来ずに空しく引き上げたそうです。
いつも曹操ファーストな許褚
許褚は戦争の時以外はボーッとした人物でしたが、性格は慎ましく礼儀正しく、素朴で寡黙な人物でした。ある時、曹操の宗族の曹仁が荊州から鄴までやってきて、曹操が出てくる前に許褚と宮殿の外で出会い、宮殿の中で雑談をしようとします。
すると許褚は「王は間もなく出御されましょう」と言うや、曹仁を置いて宮殿に戻ってしまいました。
曹仁は、ボディーガード風情にバカにされたと思い誰かに恨み言を言ったようで、それを聞きつけたある人が許褚に注意します。
「曹仁将軍は、王の宗族であるのに臣下に過ぎない君に気を使い、遜って談話しようと言ったのだぞ。それを無下に断るとは失礼ではないか?」
しかし、許褚は少しも顔色を変えず
「彼は王の一門で重鎮ですが、所詮は外様です。私は内廷の臣で王に直接お仕えしている身の上で立場というものが違います。会話がしたければ集会の雑談で充分、それをわざわざ宮殿の中で私的に交流してどうするのです?」と答えました。
曹操は、相手が曹仁でも媚びたり忖度しない許褚の心がけを増々気に入り、中堅将軍に昇進させました。
曹操の死後、血の涙を流す許褚
西暦220年正月に曹操が死去すると、許褚は号泣して血を吐き悲しみを表しました。その後、後漢が滅び曹丕が魏の文帝として即位すると許褚は武衛将軍、万歳亭侯に昇進します。
文帝もまた許褚に近衛軍を率いさせ、近くに置いて身辺の事を任せました。許褚の没年は不明ですが、明帝が即位して牟郷侯に進封し食邑七百戸として1人の子に爵関内侯を賜っているので、西暦227年頃までは存命だったのでしょう。裏表がなく誠実で曹操が好きだった許褚は、最強のボディーガードとして多くの味方に慕われて天寿を全うしたのです。
許褚(きょちょ)・年表
・中平元年頃(西暦184年)黄巾の乱の政情不安の中で若者や一族数千家を糾合して砦を固めて自衛する
・與平元年頃(西暦194年)汝南、淮南を巡っていた曹操に帰順してボディーガードになる
・建安2年(西暦197年)張繍征伐に従軍して先鋒を務め校尉に昇進
・建安5年(西暦200年)官渡決戦に従軍。従士の徐他の一派が曹操暗殺を企ているのを察知して撃殺する。
・建安9年(西暦204年)鄴の包囲戦に従軍して功績があり、関内侯に封じられる
・建安16年(西暦211年)潼関の戦いで殿を務めていた曹操に襲い掛かった馬超の騎兵を防ぎ、曹操を無事に黄河北岸まで送り届ける
・黄初元年(西暦220年)万歳亭侯、武衛将軍に昇進。
・大和元年以後(西暦227年)死去し、壮侯と諡される。
三国志ライターkawausoの独り言
許褚はよほど曹操が好きでウマが合ったんだろうと思います。タイプは違いますが、許褚のポジションは劉備における趙雲と同じで常に旗本として主君を守らないといけないので、手柄が立てづらく、逆に何かあれば一命を賭して主君を逃がさないといけないという重責を背負う仕事でもありました。
こんな大役は、待遇うんぬん以前に、主君に惚れ抜いていないと出来る事ではありません。曹操が死んだ時、泣き明かして血を吐いた許褚は、やはり曹操が好きだったんだろうなと思います。
参考文献:正史三国志
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