三国志演義のイメージでは優秀ながらもどこか性格の悪さが覗き見えしたり、諸葛亮にどこまでも及ばないまま亡くなったりとしている美周郎こと周瑜。
そんな周瑜は三国志においては完璧超人な人物でもあります。しかしそんな完璧な周瑜ですが、何とまだ自分の土地すらほとんどない頃から劉備を警戒していた?彼ほどの人間がなぜ?
ということで、今回は周瑜と彼が警戒した劉備について色々とお話しましょう。
この記事の目次
周瑜という人物
周瑜は名門の一族です。というのも高祖父(曾祖父のお父さん)の周栄は、尚書令になった人物で「後漢書」にも列伝があり、周家は三公の太尉や、太守を輩出しています。周瑜は直系ではありませんが、名門の一族として名を連ねた人物でもあります。
そんな周瑜は孫堅の息子孫策と同い年で友好を結び、金属を断つほどに堅い絆であることから「断金の交わり」と呼ばれることとなりました。
孫呉を支えた人物
孫堅の早逝後は孫策を支え、呉の基盤を共に築いていきます。しかし悲しいことに孫策もまた早逝。呉は無名であり、若輩であった孫権の肩に全てかかることになりました。そんな中で周瑜は兵を率い、呉の都に駆けつけて留まって臣下の礼をとります。周瑜は孫策と共に孫呉を作り、そして孫権を支えた王佐の才の持ち主であったのです。
正に「完璧」「超人」
そんな才気あふれる周瑜は、大らかな性格で、度量が広い人格者なので民からは周郎と呼ばれていました。歌劇などでも美周郎とも呼ばれることがありますが、どちらかというと本人は逞しく、男らしい人だったようです。
多くの人から好かれた周瑜ですが、ただ一人周瑜を「若僧」と侮って疎んでいたのが孫堅の頃からの股肱の臣、程普。
ですが周瑜は謙譲して程普に礼儀をもって尽くしたので、程普は考えを改めた……文武両道で謙虚で年長を敬える、正に完璧、超人と言っても良い人物でしょう。
その一方で三国志演義は?
ではこの周瑜が三国志演義ではどうなっているのかというと、「美男子」「文武両道」「活躍もばっちり」「だけど諸葛亮には敵わない」「魯粛をなんでかイジメる上司」となっています。
最期も最期で諸葛亮の才能に敵わないまま翻弄され続けて憤死、更に更に諸葛亮が葬式で痛哭するという死人に鞭打つかのような扱い……正直、あまり良い扱い、良いアレンジとは言えません。
とは言え史実の周瑜をそのまま持ってくると諸葛亮のキャラクターをくってしまうから仕方のないこととは言えるのかもしれませんが……三国志演義では「被害者の会」の一員と言える人物ですね。
【次のページに続きます】