宣教師ガスパル・ヴィレラによって、「まるでベネチアのよう」とヨーロッパに紹介された中世の堺。堺の、貿易によって巨万の富を得た『豪商』と呼ばれる商人たちは、主にその財力で、時代に大きな影響力を持ちました。
応仁の乱の後、堺を勢力化に置いた三好長慶、織田信長、豊臣秀吉らが全て天下人となったことからもそれがよく分かります。今回は、堺という都市に注目して、有名な豪商と関係した戦国武将などを紹介していきたいと思います。
この記事の目次
「堺」は「境」だった
「堺」の地名の由来は、摂津国・河内国・和泉国の3つの国の「境」にあったからと言われています。古くから良好な漁港として発展し、南北朝時代には、南朝方の外港という役割を担います。が、基本的にそれほど大きな貿易には携わっていませんでした。
応仁の乱で瀬戸内海が通れなくなった?
堺が大きく変わるきっかけとなったのが、室町時代の後期に起こった「応仁の乱(1467~1478)」です。これにより日本全土が荒れに荒れ、瀬戸内海も安全な航路ではなくなりました。足利義満によって始められた「日明貿易(勘合貿易)」は、幕府と細川氏主導で続いていましたが、博多・下関~瀬戸内海~兵庫港が使えません。
そこで、仕方なく九州・四国を迂回して、太平洋に出て、薩摩から土佐沖を回るという航路を取ることにしました。そして、まずまず安定していた、大阪南部の堺の港を発着地にしたのです。これが、堺の貿易を一気に発展させるきっかけとなります。
貿易ってめちゃくちゃ儲かるやん!
堺の人々は、中国の明から帰ってきた船に興味津々です。船を取り仕切っていたのは商人たちで、京都を中心とする機内が荒れているので、比較的平穏な堺で、売れるものは売ってしまおうと考えます。
幕府・細川氏に手数料を納めなければいけないので、とにかく中国から持ち帰ったものを、なるべく高値で買ってくれたらそれでいいのです。堺で商いをしてきた人間からすれば、これまでは転売につぐ転売で高値となっていたような舶来のものを、その場で交渉して買い取ることができました。
もちろん、卸売り価格(みたいなもの)なので、それまでよりも安く買って、高く転売できました。そこで、堺の商人たちは、船に乗っていた人々を接待して、貿易の内情を聞きだします。
「日本から持って行ったものは中国で高く売れるし、向こうで買ってきたものって、しょうもないもんでも日本人は喜んでめっちゃ高くで買ってくれるねん」
これが、堺の商人たちに衝撃を与えます(全体的にイメージです)。
「貿易ってめちゃくちゃ儲かるやん!」
貿易が豪商を生む
貿易が儲かるという構造を知った商人たちの1部は、金を工面してその事業に参加したいと申し出ます。弱体化していた室町幕府も、安定した収入が見込める事業なので、出来ることなら続けたいという事情もあいまって、お墨付きを与えて、堺の商人たちが琉球に視察に行くことなどを許可します。
当時の琉球は、中国のみならずアジアの貿易の中継地として大いに発展していました。これまで見たことがないような琉球の姿をみて、これはいけると感じた者たちがついに貿易業に乗り出します!
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