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東洋のベネチア
町を訪れた宣教師たちは、戦乱の世にあって、平和な町に驚いたそうです。その中の1人、ガスパル・ヴィレラは、会合衆が合議制で自治を行っているという点で「まるでベネチアのよう」だと本国に報告しました(耶蘇会士日本通信)。また、当時の日本を記したヨーロッパの地図にも「sacay(サカイ)」という地名があり、京都の玄関口として重要な都市であると認識いたようです。
織田信長の支配下に置かれる
その商人たちの自治に待ったをかけたのが、織田信長です。
当時信長は、長年堺の後ろ盾であった三好3人衆(三好長慶の後継者たち)を破り、将軍とともに京都へ上洛。将軍の権威と武力によって、近畿地方に大きな影響力を持ち始めていました。1568年、信長は堺に対して軍用金として二万貫を供出するように命令します。
一度は拒否し、抵抗もしたものの、今井宗久などの仲立ちによりついに要求を受けれいます。その後、信長はじりじりと堺に介入し、最後には自治権も奪ってしまいます。代わりに、信長に取り入った今井宗久などは、数々の特権を得ていくことになります。
鉄砲の生産はもちろん、火薬の原料となる硝石と、鉄砲玉の原料である鉛などを南蛮貿易によって仕入れることにも乗り出します。そして、これらを信長が独占することにより、他の敵対する大名たちが、鉄砲を多用できなかったとも言われています。戦では、鉄砲が多用されるようになり、信長はますます有利になっていきます。
信長の死後は豊臣秀吉が支配
信長が天下統一目前で亡くなった後は、秀吉に支配され、堀や港を埋めたてられてしまい、活気を失っていくことになります。
戦国ライターしばがきの独り言
戦国時代を描いたものには必ず登場する町『堺』。豪商たちによって自治されることによって独自の文化を生みました。特に有名なのが茶道でしょう。町の繁栄は長く続きませんでしたが、文化は今でも私たちの中に残っています。たまには、茶室で抹茶でも飲まなければなりませんね。
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