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この記事の目次
三国志演義までの流れ
ここで少し、時系列的に三国志を見ていきましょう。まず中国統一後の280年以降とされる時期に、正史「三国志」が陳寿の手によって編纂されます。
そして五胡十六国時代から南北朝時代頃に裴松之が注釈を入れました。
そして明の時代頃に、羅貫中によって正史三国志を元にしつつ、三国志平話を併せた「三国志演義」が生まれたのです。
このことから考えると、裴松之が注釈を入れた頃にはいくつか民間で娯楽とした三国志が生まれており、三国志平話が生まれたのだと思われます。民間娯楽とあって、親しみ深い張飛の出番が多かったのかもしれませんね。
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正史三国志寄り?三国志平話寄り?
ただ三国志演義は、三国志平話の原型といいつつも、正史三国志の注釈、記述などが大量に含まれているのもポイントです。というよりも、かなり正史三国志を取り込んで書いていると言っても良いでしょう。
なので原型といっても丸々そのままではなく、かなり歴史に沿って書かれている部分が大きいですね。ここら辺のこともあって、張飛の出番ではなく諸葛亮の出番が増えたのではないかと思います。
もしかしたら時代は荒っぽいけど良いやつ系よりも、クレバー何でもできちゃう系を好んでいたのかもしれない……と妄想すると、時代の移り変わりも見えて面白いところ。とは言え三国志平話の要素は色々と三国志演義に取り入れられており、ぜひ一度は見てみて欲しい作品です。もし興味を持たれましたら、翻訳された本を一読されて見て下さいね。
日本への浸透
ちょっとここで今回の小話を。歌舞伎の演目に、白波物、という分類があります。これは盗賊を主題にした演目であり、白波というのは盗賊のことです。
そしてこちらがどこから来たかというと、黄巾賊の残党が立てこもったのが「白波谷」であるとして生まれた言葉。これは「通俗三国志」という元禄初年に刊行された三国志演義の訳本から生まれました。
そう、江戸時代から既に三国志は日本に浸透していたのです。こう考えると日本での三国志人気、決して昨日今日始まったものではないんだなぁ、と、改めて思いますね。
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三国志ライター センのひとりごと
今回は三国志平話、三国志演義の繋がりについて拙いながらご紹介させて頂きました。序盤から飛ばしてくる三国志平話ですが、後の展開は結構するすると頭に入ってくる内容です。原型とはしても、その魅力は三国志演義のものとはまた別の魅力。三国志の世界をより深めてくれる作品です。
参考文献:三国志平話 立間 祥介「全相三国志平話」
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