九品官人法(きゅうひんかんじんほう)の理想と弊害

2016年7月8日


 

三国志大学 曹操

 

私達は中国王朝の官吏採用試験というと「科挙」という紙のテストを思い起こします。

しかし、この科挙が制度化されたのは、6世紀末、隋(ずい)の時代以後の事でした。

それ以前には、あの曹丕(そうひ)が定めた九品官人法(きゅうひんかんじんほう)

何と400年近くも人材登用の基礎になっていたのです。

ところが本来は、門閥に縛られず、優秀な人を採用するという理想から生まれた

九品官人法は逆に貴族階級を産み社会を停滞させました。

その理由は何か?今日は試験にも出る九品官人法をポイントで解説します。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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九品官人法前夜 郷挙里選(きょうきょりせん)

郭嘉

 

九品官人法以前の中国では、郷挙里選(きょうきょりせん/ごうきょりせん)という

人材登用法が採用されました。

これは、各地の長官に毎年、最低一人の人材を推薦するように義務づけるもので、

それを選ぶのは、その地方の豪族達による合議でした。

最初の頃は機能した、郷挙里選ですが、選ぶのは土地の豪族である為に、

能力よりも、地方の豪族の利益を代表する人物が選ばれるようになります。

 

郭嘉

 

特に、それは唯才令(いさいれい)を掲げて派閥のしがらみを越えて

有能な人材を集めようとした曹操(そうそう)には都合が悪く、

また、中央では推挙された人材が地域の派閥毎に割拠してしまうので

国家の意志より豪族の意志を優先する弊害が生まれました。

 



曹丕は陳羣の意見を入れて九品官人法を採用する

曹丕皇帝

 

曹操は郷挙里選を廃止する事なく死去しますが、その後を受けた曹丕は、

すぐに尚書の陳羣(ちんぐん)の意見を入れて九品官人法を採用します。

曹丕は、その後、後漢の最後の皇帝献帝(けんてい)に禅譲させて

後漢を滅ぼし魏を建国するので、九品官人法は、とりも直さず

新王朝、魏の為の制度でした。

 

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九品官人法の肝は国家が自分達に従う人材を選ぶ事

曹丕 残忍

 

九品官人法では、人材の推挙者は、地方の豪族ではありませんでした。

それは、中正官といい郡毎に一人ずつ、皇帝が任命します。

ここから、九品官人法は、九品中正法と呼ばれる事もあります。

中正官は皇帝の家臣なので、地方の豪族とは関係ありません。

そこで、豪族の思惑に関係なく魏王朝にとって有益な人材を

推挙してくれると曹丕は考えていたのです。

 

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九品官人法の制度とは、どんなものか?

合肥むかつく04 満寵

 

九品官人法では、一品から九品まで身分のランクが存在しています。

中正官は、人材を推挙する際に、能力に合わせて品を与えていきます。

例えば、中正官に二品と評価された人物は、その4ランク下の

六品からキャリアがスタートし、順調に行けば二品まで上れました。

 

この中正官が最初にランク付けする官位を郷品(ごうひん)と言い

4ランク下の出発点を起官家(きかんけ)と言いますが、

九品官人法では、どんなに出世しても、

この最初につけられた郷品を上回る事は出来ませんでした。

 

つまり、最初で中正官に四品とランクづけされると、

最初の起官家は八品になるのですが、そこからどんなに頑張って

昇進しても三品になる事は出来なかったのです。

 

ここが、この九品官人法の最大の欠点であり、後に門閥貴族が

高い地位を独占する弊害を産みます。

 

司馬懿が中正官の上に州大中正を置き貴族化が固定される

 

司馬懿 仲達

 

この九品官人法の法制上の欠陥は、すでに魏の重臣の

夏侯玄(かこうげん)が指摘していました。

 

「これなら、地方豪族は確かに人事に介入できないが、

逆に中正官と癒着した勢力が人材登用を意のままに操れるではないか?

もっと中正官の権限を縮小すべきであろう!」

 

しかし、その提言を受けた司馬懿(しばい)は夏侯玄の意見を握りつぶします。

そして西暦249年に、王族の曹爽(そうそう)をクーデターで追い落として

政権を握ると中正官の上に、州大中正という州を管轄する中正官を置きます。

もちろん、州大中正も中正官も任命するのは司馬懿です。

 

こうして、司馬懿は、魏の内部にあって自分達司馬一族に

味方する人材をどんどん登用して魏を弱体化させていきます。

司馬懿は九品官人法を王朝のっとりの道具にしたのです。

 

腐敗する九品官人法は、上級貴族と下級役人を生み出す

司馬炎 はじめての三国志

 

それでも魏の時代には、まがりなりにも能力重視で人材が登用されていた、

九品官人法ですが、司馬炎(しばえん)が西暦280年に中国を統一すると、

もう有能な人材を発掘する必要もなくなり急速に家柄重視の制度になります。

 

最初に中正官に二品をつけられる一族は、甲種(こうしゅ)、

門地二品と呼ばれ、晋王朝の最高の家格になっていきました。

しかも、いつの頃からか、甲種の家格を持つ家柄は中正官のランク付けに

意見を挟む事が出来るようになり、甲種の家に生まれると自動的に

最初の郷品は二品になるというランクの固定化が生まれます。

 

六朝時代に入ると、九品官人法は機能不全を起こす

顔良と袁紹

 

晋は八王の乱で弱体化し、都を建業に移して東晋になります。

以後、隋王朝による天下統一までの長江以南の歴史を

六朝(りくちょう)時代とも言いますが、六朝時代の王朝の権力基盤は

いずれも弱く政治は大貴族によって左右される時代が何百年も続きました。

 

こうして、家柄ではなく能力で人材登用という九品官人法の建前は

完全に形骸化してしまい、どんなに頑張っても六品止まりの

下級官僚の濁官と最初から二品にランク付けされる上級貴族の清官に

官僚は大きく二分されてしまいました。

 

濁官階級であった西晋の劉毅(りゅうき)は能力ではどうにもならない

身分の壁に絶望し、その口惜しさを漢詩に託します。

 

「上品に寒門(低い家格)無く、下品に勢族(権力者)無し」

 

この嘆きの詩こそが、九品官人法が生み出した答えでした。

 

三国志ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

清官とは今でいうキャリア官僚でした。

濁官で苦労して六品に上った人と、清官で六品から出発した人では、

品は同じでも、年齢も違うし、出世のスピードもまるで違います。

数年で楽な仕事を次々と歴任して、高い地位に登りつめる清官を

何年間もキツイ仕事をこなして、やっと六品の濁官官僚は

複雑な感情で見ていた事でしょう。

 

もっとも、清官でも必ず二品に上れるという保証は無く

政変や自分のヘマで出世の道が閉ざされるケースも多くあり、

家柄だけ良くて、重要なポストにはつけないボンクラ二品も

多く存在してはいました。

 

まあ、それでも生まれで最初から有利な清官は、

濁官から見れば羨ましくも妬ましくもあったでしょうね。

 

本日も三国志の話題をご馳走様・・

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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