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この記事の目次
劉備が皇帝になると関羽と張飛の一族は?
劉備が関羽や張飛を義兄弟、家族同然に扱った証拠として、張飛の娘が2代目皇帝、劉禅の皇后として嫁いでいたり、関羽の息子や孫が蜀の宮廷で重んじられていた事が挙げられます。
蜀の没落の契機になった夷陵の戦いも、その大義名分は孫権の裏切りにより関羽が殺害された事に対する劉備の怒りでした。ただの一家臣の死に対して、ここまで激怒するのは異例で、やはり劉備の関羽に対する特別な感情を見て取る事が出来ます。
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桃園3兄弟以外の義兄弟
三国志の時代は戦乱の時代なので、血縁関係にないもの同士でも、互いに信頼し命を懸けあう決意を持って義兄弟の契りを結ぶケースがありました。
『新解釈・三國志』にも登場した周瑜と孫権の兄、孫策も若き日に断金の交わりを結び、共に揚州に勢力を拡大していきました。断金とは金属でも切断できる強い絆を意味します。孫策と周瑜の関係は、孫策が非業の死を遂げた後も変わりませんでした。
さらに、北方の涼州で曹操に長期たてついた軍閥の韓遂と馬騰も義兄弟の契りを結んでいますが、後に険悪になり殺し合いを演じる事態に陥っています。また、義兄弟という記述は見られませんが、曹操にも張邈という親友がいて、曹操は家族に、自分に万が一の事があれば張邈を頼れと言っていたそうです。
ただ、こちらも後に張邈が曹操の留守中に呂布を引き込んで反乱を起こした為に曹操と不和になり、張邈死後、曹操により家族は皆殺しにされました。こうして見ると義兄弟は強い絆に違いないですが、一度関係が壊れるとそれは強い憎悪に転換して、大惨事をもたらす事が多いようです。
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三国志ライターkawausoの独り言
なぜ義兄弟で劉備が一番上なのか?それは劉備が3人で一番年上だからです。『新解釈・三國志』では張飛はともかく、関羽が劉備よりも明らかに老けてみえるので、こんな疑問になったのかも知れませんが、実際は劉備より年下のようです。
ただ、史実には劉備、関羽、張飛の3名が義兄弟の契りを結んだという記述はありません。それでも、同じベッドで寝て苦楽を共にし、劉備が皇帝になってからは、張飛と関羽の子孫も重く用いられているので、部下と主君のドライな関係ではなかったのでしょう。