三国志演義の始まりは、劉備の旗揚げ時から……という意識が強くあります。三人の出会い、そして義兄弟の誓い、ここから物語が始まっていくのだという胸の高鳴りを感じますね。
しかしここの三人と言えば劉関張の三兄弟ですが、実はそこにもう一人いた?
今回はそんな三兄弟と、ずっと一緒だった簡雍の存在についてちょっとお話しましょう。
この記事の目次
劉備と同郷
簡雍は幽州出身であり、劉備とは同郷で古くからの知り合いです。そして劉備の旗揚げからずっと一緒、という存在でもあります。
そんな簡雍についての記録はそこまで多くはありませんが、劉備が荊州に入ってからは麋竺、孫乾らと同じく文官として働き、お使い役として働いていました。特別名家の出、というような記述こそないものの、劉備にとっては古くからの知り合いであり、気心の知れた存在でもあったのでしょう。
関連記事:劉備は黄巾の乱の時に何をしていたの?どうやって軍資金を調達したの?
関連記事:読書嫌いの劉備が学んだ盧植先生!クラスメイトは誰だったの?
劉璋にも好まれた人柄
後に劉備は入蜀しますが、それに付き従った簡雍は劉璋にもその人柄を好まれました。劉備と劉璋が対立した際には、劉璋への降伏使者として赴いています。
この際に優柔不断と言われながらも民思いでもあった劉璋は簡雍の降伏勧告を受け入れ、簡雍と一緒の車に乗って成都を発ちました。この功績から簡雍は出世、孫乾と同じくらいの待遇で蜀には欠かせない位置づけとされたのです。
関連記事:これがお金の本質?劉巴が鋳造した直百五銖銭がズル過ぎる
傲慢不遜?
劉備と古い知り合い、劉璋にも愛された人柄、と言われると清廉潔白で穏やかな人柄と思うかもしれませんが、簡雍はこれで中々「いい」性格であったようです。
蜀書には「おおらかで穏やか」と称される一方で「傲慢だった」とも記されています。劉備の前でも諸葛亮がいても、長椅子に寝そべって話すような人柄だったとか。
しかしそういった人物だからこそ劉備も気の置けない間柄で付き合いが続けられ、劉璋からすればどこか憧れるような人柄だったのかもしれませんね。
関連記事:【シミルボン】衝撃!あの孔明にパシリの時代があった?
関連記事:えっ?劉璋は若い頃かなり気性が荒かった?
ちょっと下ネタを……
そんな簡雍の逸話は、機転が利きながらも少し腰から下のお話です。
ある年、干ばつが発生したため、劉備は禁酒令を出しました。この際にお酒を飲むだけでなく、酒を醸造する道具を持っていた、というだけの者まで逮捕されました。これは少し行き過ぎですが、そこで面と向かってたしなめる訳でもなく、別のアプローチをしたのが簡雍。
劉備と町を視察する中、簡雍は一組の男女を見て
「淫行を行おうとしているから逮捕しましょう」と言い出しました。
何故か、と問いかける劉備に簡雍は
「彼らは淫行を行える道具を持っているではありませんか」と答えました。
簡雍の意味する所を察した劉備、笑って酒を醸造する道具を持っていただけの者を釈放したということです。
劉備の行動を機転を利かせつつ、ウィットにとんだトークでたしなめた簡雍。中々頭が回りつつも、劉備のみならず逸話を見ているこちらもクスッとさせてくれる人物です。
関連記事:【衝撃の事実】劉備と同郷の簡雍(かんよう)がいなければ三国志がなかったかも!?
関連記事:劉備は趙雲や関羽・張飛と同じベットで寝ているけど狭くない?
どうして三国志演義では不遇な扱いを受けているの?
こんな簡雍ですが、三国志演義ではちょっと不遇な扱いを受けています。前述したように簡雍は劉備とは古くからの知り合いであり、劉関張の三兄弟にも負けず劣らず、長く付き合いを続けている人物です。
しかしこの簡雍は、三国志演義では旗揚げ時には出てきません。いつの間にかいたように途中からの参加になっているのです。これはどうしてでしょうか?
関連記事:三国志演義の主人公は劉備!いったいなぜ?
【次のページに続きます】