魏の豪傑!母までも厚遇させた張遼の存在

2021年3月5日


 

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敵を相手にして奮闘する張遼

 

三国志の一大勢力である魏には数多くの文官武将がいますがその中でも長きに渡って数多くの功を立てた武将と言えば張遼(ちょうりょう)が挙げられます。

 

高順と張遼

 

張遼は丁原(ていげん)董卓(とうたく)呂布(りょふ)に仕えた後、曹操(そうそう)に降り配下となりますが、その後曹丕(そうひ)の代にも変わらず仕え続け魏を支えます。魏に対して多大な功績を残した張遼は自身だけでなく自身の母にも波及することになります。今回はそんな張遼の功績とその影響力を見ていきます。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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曹操に仕えるまでは主が変わり続けた張遼

kawausoと呂布と張遼

 

張遼は前漢の武帝に仕えた聶壱(じょういつ)の子孫にあたる人物です。聶壱が当時漢と友好関係にあった匈奴(きょうど)との交易を利用し軍臣単于(ぐんしんぜんう)を打ち取る計画を立てた(結果は失敗)ことから単于の一族に恨まれたため張と改名したとされています。

 

丁原(ていげん)

 

張遼自身は若くして郡吏となりその勇猛さを当時并州刺史(へいしゅうしし)の丁原に見出され配下となりますが、同じく丁原に仕えていた呂布が董卓に寝返り丁原を殺害。張遼自身も董卓の配下となります。

 

ヘソにろうそくを刺される董卓

 

その後朝廷を牛耳っていた董卓が王允(おういん)とまたも寝返った呂布に殺害されると張遼は呂布に仕えます。しばらくは呂布と行動を共に各地を転々としますが、下邳で曹操に敗れるとついに運命の人曹操に仕えることになります。

 

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鬼神と化した合肥での戦い

関羽の降伏を説得しにいく張遼

 

曹操に仕えて以降張遼は袁紹との官渡(かんと)の戦いの前戦である白馬(はくば)の戦いで、当時投降していた関羽(かんう)と共に顔良(がんりょう)を討ったり、袁紹(えんしょう)死後その息子である袁譚(えんたん)袁尚(えんしょう)との戦いや荊州(けいしゅう)へと赴任など数々の功績を立てますが、張遼の功績で最も大きいものはやはり合肥(がっぴ)の戦いが挙げられます。

 

呉の孫権

 

赤壁(せきへき)の戦い後曹操は勢いを失い逆に孫権(そんけん)は勢いづいていました。そんな中張遼は李典(りてん)楽進(がくしん)と共に呉との境である合肥に赴任していましたが、ある日孫権自らが10万の大軍を率いて合肥に攻め込んできました。

 

張遼・楽進・李典

 

この時の魏軍の兵力はわずか7000人程度であり当時曹操は漢中の張魯(ちょうろ)を討伐すべく遠征をしている最中でした。さらに李典や楽進と張遼は不仲であるという懸念点もあり絶体絶命の危機的状況でした。

 

しかしこんな時に私的な争いをしてはならないと三人で話し合い協力してこの事態にあたることとします。曹操から届いた書状に書かれていた「張遼と李典は出陣して迎撃、楽進は城を守れ」

 

との命に従い出陣前の夜中に兵士を800名募り牛を殺して将兵に振舞い士気を高めました。

 

張遼の猛攻に泣きながら逃げる孫権

 

呉軍全軍が集合する前に張遼は自ら先鋒となり数十人の兵と2人の将を斬り孫権へと迫る勢いでした。孫権は出鼻をくじかれ丘の上に引きますが張遼は

「そこの短足の男!丘を降りて戦え」と一喝します(この時張遼は孫権の風貌を知りませんでした)。

 

進撃が止まらない張遼

 

孫権はそれでも応じませんでしたが張遼の率いる兵が少数であることを知ると大軍で包囲します。張遼は左右二手から包囲を突破すると見せかけ包囲の中央から突破します。

 

張遼は包囲の突破に成功しますが付いてこられたのはわずか数十人であり、残りは包囲の中に取り残されてしまいます。

 

残された兵が「将軍は我々を見捨てるのですか!」と叫ぶと張遼は再度包囲の中に飛び込み救出し三度包囲を突破します。

 

取り残された部下を助けに行く張遼

 

この光景をみた孫権率いる呉軍は意気消沈しそれ以上張遼を追撃することはしませんでした。その後合肥城は包囲されますが呉軍に疫病が蔓延したため、孫権は撤退したことにより事なきを得ます。張遼のすさまじい武、仲間を見捨てない義により味方を鼓舞し敵は恐れました。

 

泣く子も張遼

 

その結果7000人の兵力で10万もの大軍を退けたことは後世に語られる張遼の見せ場となり、当時もこのことは広く伝わり呉の地においては泣き止まない子に対して、

 

「張遼が来るぞ!」というとピタリと泣き止むといわれるほど恐れられる対象となりました。

 

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三国志主要戦図一覧

 

泣く子も黙る張遼の親孝行

愛馬に乗る張遼

 

敵軍から恐れられ特に呉では張遼が来るぞ!と子供に言うと泣き止んでしまうほどとされていた張遼ですが、魏軍においては非常に頼もしい存在であったことは言うまでもありません。曹操からも厚遇され合肥の戦い以降征東将軍に任じられます。

 

孫権討伐時に合肥を訪れた曹操は当時張遼が戦った場所を一つ一つ見に行き深く感心しています。さらに曹操の死後その息子である曹丕が魏王の地位を継承すると張遼は夏侯惇(かこうとん)の後任として前将軍に昇進させ、帛千疋と穀一万石を与えられ張遼の兄の張汎(ちょうはん)と一子は列侯(れっこう)に封じられます。

 

魏の皇帝になる曹丕

 

そして曹丕は張遼の母にも張遼同様の厚遇を与えます。221年に張遼のために邸宅が建造されるとそれとは別に張遼の母のためにも宮殿が建てられます。

 

長安(俯瞰で見た漢の時代の大都市)

 

また再度孫権が攻めてきた際には張遼と共に駐屯地へ赴く母のために曹丕の勅命にて輿車(よしゃ)を支給し、道中兵馬をつけて護衛にあたらせさらに駐屯地に到着すると張遼の配下であった武将たちを道の両側に並ばせ出迎えさせるほどでした。

 

この光景を見ていた見物人たちは大変名誉なことだと感心したそうです。これほどの厚遇を受けた母のさぞ張遼のことを誇りに思い自慢の息子であると感じていることでしょう。

 

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まとめ

魏みんなで魏志倭人伝(夏侯惇、典偉、夏侯淵、許長、張遼、曹操)

 

張遼は名だたる魏の武将の中でも多くの功を立て現代でも人気のある武将の一人です。味方にいれば心強いですが敵となると非常に恐ろしい存在であり「泣く子も黙る」の語源ともいわれています。

 

三国志ライターAlst49の独り言

 

張遼は曹操だけでなく曹丕からも重用されその待遇は手厚く母にまでも宮殿を建てるほどでした。そんな張遼が亡くなった際には曹丕は涙を流し悔やんだほどです。これほどの人物ですので現代においても人気であるのは必然ではないでしょうか。

 

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三国志主要人物の出身地図

 

 

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Alst49

大学院で西洋古代史を研究しています。中学1年生で横山光輝『三国志』と塩野七生『ローマ人の物語』に出会ったことが歴史研究の道に進むきっかけとなりました。専門とする地域は洋の東西で異なりますが、古代史のロマンに取りつかれた一人です。 好きな歴史人物: アウグストゥス、張遼 何か一言: ライターとしてまだ駆け出しですが、どうぞ宜しくお願い致します。

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