人生には色々なターニングポイント、と呼ばれるものがあります。このターニングポイントは本人自身は分からず、後々から考えてみて「そういえばアレは」となるのが面白い所。
そんなターニングポイントと言える瞬間は歴史に、三国志にもたくさん見ることができますが、その中でも劉備のターニングポイントと言える夷陵の戦いについて、今回は改めて考えてみたいと思います。
この記事の目次
夷陵の戦いとは?
夷陵の戦いとはざっくり言うと、劉備が義弟である関羽の仇を討つために、そして荊州の奪還のために呉を相手に戦った戦いです。
この夷陵の戦いが起こる前の樊城の戦いで魏と戦った際に、ここに呉が介入。関羽は樊城で命を落とします。
これに怒り狂った劉備は復讐戦を決意、幾人もの臣下たちが諫めるも聞き入れることなく、呉との戦いに臨みました。
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夷陵の戦いで善戦するも
夷陵の戦いは、最初こそ蜀が呉を押していました。ただしここで蜀の地が足を引っ張ります。
蜀の土地は山に囲まれた天然の防衛陣と言えますが、このために蜀の地から各所に進軍するのも大変なのです。
呉を押せば押すほど蜀の陣営は伸び、補給路も伸びていき、そこを陸遜に狙われて火計によって大敗北。
多くの武将たちが討ち死にし、劉備は傷心のまま白帝城にまでは何とか帰りましたが、それから動くことはなく病死しました。
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白帝城での劉備の死
さて劉備は白帝城に永安宮を造営し、そこに滞在して、亡くなりました。蜀の都である成都には最期まで帰ることはなかったのです。
筆者はこれをずっと「そりゃ反対押し切って戦して、大敗北して立ち直れなくて、もう都にまで帰れないよなぁ……」と思っていました。
しかし色々と読み込んでみると、それとはまた別の理由も浮かんできたのです。
劉備が白帝城に没した理由、それをまた考察してみたいというのが今回の主題。そしてその理由は……劉備は「再び孫呉と戦う気でいた」のではないか?と思いました。
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白帝城の位置
さて劉備が白帝城で病死したのは223年の六月、夷陵の戦いが始まったのが221年、そして222年の夏に大敗北して白帝城を訪れています。つまり戦い始めて一年ほどで敗北、白帝城に逃げ込んでから一年も経たずに病死していることになります。
ここでまず注目したいのが白帝城の場所、ここは蜀と呉の対立における最前線です。
「そりゃあ負けて逃げ込んだから最前線にいるでしょ」と皆様思うかもしれませんが、ここで劉備が呉と戦いを考え、敢えてここにとどまったのではないかと考えた理由、それは馬忠伝にあります。
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「狐篤を得た」
劉備が夷陵の戦いで敗北した際に、巴西太守であった閻芝は兵士五千人を馬忠に率いさせて援軍として向かわせました。援軍としてやってきた馬忠を見た劉備は「黄権を失ったが狐篤を得た」と語ったと言います。
因み狐篤とは馬忠のこと(改名して馬忠に)で、黄権は夷陵の戦いで劉備を諫めるも聞き入れられず、敗北の際に撤退できずにやむを得ず魏に降ることになった武将です。
劉備はどうして馬忠の援軍を喜んだのか?
どうして成都まで帰ることなく白帝城に滞在したのか?
これらを加味すると劉備は未だ荊州を諦めておらず、関羽の仇も諦めておらず、呉と戦うつもりではなかったのかと思うのです。
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