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この記事の目次
いかに総大将でも劉備の意向は無視できない
季漢輔臣賛では領軍として蜀の全軍を統べる馮習の責任は大きいとしています。しかし、それでも劉備の責任よりは、総体的に非は小さいとkawausoは思います。
いかに総大将とはいえ、劉備は陣頭指揮を執っているわけですから、馮習が自分の裁量で蜀軍を動かしたとは考えにくいのです。将軍の独立性は、君主が遠く離れた後方にいるからこそ発揮されるわけで君主である劉備が近くにいるのであれば、領軍と言えども一将軍に過ぎないでしょう。
馮習としては自身の作戦もあるにはあったものの、劉備が主導する作戦を補佐するより、道は無く、いわば巻き添えを食う形で敗軍の将として認定されたと言えます。
これは、堂々と命令違反をして街亭で敗北した馬謖と違い、馮習には弁護の余地があると言えるのではないでしょうか?
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馮習は無能だったのか?
夷陵の戦いで戦死し、実力未知数な馮習ですが、無能な将軍だったのでしょうか?
それを推測するには、馮習と組んで戦った呉班のその後を見てみるといいでしょう。呉班は、夷陵の敗戦を生き残り、劉禅の時代には督後部、後将軍に昇進。北伐にも参加し、魏延・高翔と共に司馬懿率いる魏軍を撃退する功績を挙げています。
馮習は、呉班と組んでいたのですから、呉班並みに能力があったと推測できます。そう考えるならば、夷陵の敗戦で生き残っていれば、呉班と車の両輪となり一定以上の活躍が出来たと考える事も出来ます。
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馮習は生き残ったとしても…
しかし、仮に馮習が生存できても領軍という地位にあった以上、蜀政権としては皇帝劉備を非難できない分、馮習に全ての責任を被ってもらう以外にありません。
その場合、被害の大きさを考えると極刑も止む無しとなり、生存しても結局は命を失う結末に落ちつくかも知れませんね。夷陵の戦いで領軍を拝命した事が、馮習最大の不幸という事でしょうか?
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三国志ライターkawausoの独り言
今回は夷陵の敗戦責任者、馮習について取り上げてみました。決して無能ではなさそうな馮習ですが経験不足から呉軍を侮り、また総大将でありながら君主である劉備が陣頭で指揮を執り、主体性を発揮できないなど運の悪さが目立ちます。
これは、こういう星の下に生まれたとしか言いようがないですね。
参考文献:正史三国志
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