三国時代は色々な故事成語が生まれた時代でもあります。その中の一つにあるのが劉備の逸話から生まれたと言われる「脾肉之嘆」。
この髀肉之嘆はある意味でも現代に通じる故事成語でもあり、そして劉備の境遇を良く表した故事成語でもあります。今回は改めてこの髀肉之嘆についてお話したいと思います。
劉備の決起から
劉備は黄巾の乱に置いて、義弟二人を交えた義勇軍を率いて参加。そして董卓の専横を見過ごせず連合軍に参加。
そしてそして曹操の徐州進行に参加……ここで、劉備は初めて自分の土地を譲り受ける形で得ます。
しかしよりにもよって呂布を受け入れてしまったことで徐州を乗っ取られ、一度は和解するもやはりすぐにその関係は破綻。
ここで劉備は曹操の元に落ち延びていくことになります。
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劉備が諸葛亮に出会うまで
曹操の元に落ち延びた劉備はその協力を得て呂布を撃破、やっと徐州を取り戻す……のですが、ここで董承の曹操討伐計画に参加して、逆に曹操に討伐されそうになる所を袁紹の元に逃亡。
袁紹の元に身を寄せるも曹操が袁紹を撃破、更に逃亡して劉表の元に身を寄せることになります。
この劉表の元に身を寄せている際にあの三顧の礼で有名な諸葛亮との出会いがあり、劉備はここからやっと自分の土地というものを手に入れる時期がやってくるのです。
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逃亡の歴史
ここまでざっくりと見るだけでも分かりますが、劉備は行く先々で逃亡、どこかに身を寄せる、身を寄せた先が滅んだので次、といったように行く先々で貧乏神っぷり困難に直面しています。
何が凄いってここまで逃亡しっぱなしなのに、再び立ち上がって行くことです。しかし劉表の元に身を寄せて穏やかに暮らしていた際、劉備はある日現実を直視することになるのです。
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髀肉之嘆
ある日、劉備はトイレに行った際に、自分のももに贅肉が付いていることに気付きます。
かつては乱世の中で必死に生き抜いてきた劉備、しかし劉表が受け入れてくれたことですっかり穏やかに日々を過ごしてしまい、馬を駆ることもなくなったためにももに贅肉が付いてしまったのですね。
だけどそんな状態になってもなお、劉備は曹操のように地盤を築けてはいません。劉備はこんな自分の境遇を嘆き、それが髀肉之嘆という故事成語となったのです。
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