こちらは2ページ目になります。1ページ目から読む場合は、以下の緑ボタンからお願いします。
新陳代謝
さて劉備の生年は161年、没年223年で享年は63歳。劉表の元に身を寄せたのが201年と言われています。ここから考えると劉表の元にいた頃の劉備の年齢は40代突入くらいですね。
一般的に新陳代謝が落ちる、つまり太りやすく痩せにくくなるのが30代と言われており、そこから新陳代謝はどんどん落ちていきます。
劉備は30代までは流浪と放浪、逃亡を繰り返さずを得なかったのでむしろ自分の身体に鞭を打っていたとも言えますが、新陳代謝がかなり落ちてしまった40代から劉表の元でゆったり過ごしたのでその鍛えぬいた身体も段々と萎えてきてしまったのでしょうね。しかし髀肉之嘆が「効果を発揮」してくるのはこのずっと後だと筆者は思うのです。
関連記事:劉備にカリスマ性があったの?三国志の英雄・劉備玄徳のカリスマの真実
関連記事:長坂の戦いはどんな戦いだったの?史実をもとに地図を使い徹底解説!
色々なあっての夷陵の戦い
さーてざっくりと時間を勧めましょう。既に関羽も張飛もなく、曹操も没し、曹丕が禅譲を受けて、それを認める訳にいかない劉備も漢中王になりました。
ここで劉備は関羽の仇と呉との戦いを選んでしまいます。夷陵の戦いは最初こそ善戦していたものの、222年に大敗北してしまいます。
この時の劉備の年齢は既に60代、髀肉之嘆から更に20年過ぎているのです。そして夷陵の戦いで失った数々の年若い武将たち……私が劉備だったら、これほど心折れることはないでしょう。
関連記事:夷陵の戦いで敗北した劉備は呉と再戦するつもりだった?敗戦後の劉備を考察
関連記事:夷陵の戦いの功績があったにも関わらず、どうして晩年の陸遜は憤死に至ったの?
劉備が立ち直るための時間
劉備は何度も何度も立ち上がりました。敗北してもまた立ち上がる、髀肉に嘆きながら立ち上がるのが劉備です。しかしその脾肉から既に20年経っています。
20年前ですら自分のももに贅肉が付いてるのを見て「こんな年になっても何もできていない」と嘆きました。そこから更に20年経っているのです。自分に残された時間は……そう考えたからこそ、もう既に嘆くことすらできなかったのではないか。
そう思うと髀肉之嘆はあの瞬間に起こったからこそ、後々にじわじわと効いてくるボディブローのようなものだったのかな……?なんて、三国志の時間の流れを感じるのでした。
関連記事:劉備は白帝城で死んでいなかった!はじ三探偵・晃の事件簿
関連記事:もし劉備が白帝城で死ななかったら三国志はどうなる?
三国志ライター センのひとりごと
髀肉之嘆はある種、年を取ることへの嘆きです。それはある意味で、現代にも通じる嘆きなのかもしれません。
因みに三国志演義では夷陵の戦いの前に劉備は若い武将たちが集まったことから老兵を軽んじるようなコメントをしたことで、黄忠が命を落とすことになります。
もしかしてそういった発言が出てきたのも劉備自身の年齢に対する意識だったのかな、と三国志演義でも考えてしまい、物語とは言え時間の流れをひしひしと感じてしまう作者なのでした……とぷん(更なる沼にハマる音)。
参考文献:蜀書先主伝
関連記事:【長江三峡】劉備が逃げ込んだ白帝城によかミカンが突撃
関連記事:蜀漢の帝都・成都はヤバイ場所だった?