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兄との関係
孫権は、父親を10歳になる頃に亡くしています。その頃から七つほど上の兄、孫策が家を率いて行動していました。そして小覇王とまで呼ばれた兄は、孫権が19歳の頃に亡くなり、後継者となりました。
孫策と孫権がどのような関係であったのかは分かりません。しかし孫策は孫権を後継者賭する際に、「天下を取る才能は自分には劣る」と言っています。この後に「才能ある者を用いること、家を守ることに関してはお前の方が上である」と言っているので、兄は弟を正しく評価していたのでしょう。
しかしこの一点、家を広げ、天下を取る才能に関しては兄に劣っている。それはもしかしたら、孫権のずっと見てきた兄に対するコンプレックスだったのではないか、と思うのです。
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兄の存在
孫権は兄である孫策を尊敬していた、その一方で兄の才能に劣等感を抱いていた。兄がいるままならそれで良かったが、兄が死に、その全てが自分に回ってきた。劣等感を抱えたままの中で、兄に良く仕えた、兄を良く知っている家臣からもし
「兄君はそうではなかった」と言われたらどうでしょうか。
孫策に良く仕え、孫策に孫権を任された張昭からそんな言葉が飛び出たかどうかは、実際は分かりません。しかしもしそんなことがあれば、兄を良く知る存在だからこそ疎ましいと思うでしょう。
これはあくまで筆者の想像の域を出ませんが、だから孫権はやたら張昭と対立していたのではないかと思うのです。
その一方で兄に対する尊敬や、頼れる兄が当然いなくなってしまったからこそ、優しくゆっくりと諭してくれる諸葛瑾にはあれほど耳を傾けるようになったのではないか……?
そんな風にふと、書かれていない記述の合間を妄想せずにはいられない筆者でした。
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三国志ライター センのひとりごと
歴史は記されていることが全てではありません。また人もまた、表面に出された全てが全てではありません。だからこれは、全て想像でしかないのです。
今回はふと、筆者が孫権と張昭の記録の行間を妄想したに過ぎませんが……そういうのもまた、三国志の楽しみの一つということで……。
今日もまた、三国志の沼からお届けしました。ちゃぷん。
参考文献:呉書張昭伝 呉歴
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