頑丈そう見えるお城ですが、その中で大勢の人間が暮らすと、段々と汚れていき、施設が破損して防衛機能が落ちていきます。こんな時に、敵に攻めて来られたらイキナリ不利になるので、わきまえた将軍は人知れず、城のメンテナンスを欠かしませんでした。
呉の最末期の名将、陸抗もそんな真面目で几帳面な将軍の1人だったのです。
運命を暗示する陸抗と諸葛恪
では、陸抗がいかに几帳面で真面目な人だったかを物語る逸話を呉志、陸抗伝から引用します。
赤烏九年(西暦246年)、陸抗は立節中郎将にうつり諸葛恪と交代し柴桑に駐屯した。陸抗は柴桑の軍営を去るにあたり、皆な新しく修繕して城壁を修理し、落ちた屋根を葺き直し、庵や桑木や果実なども、好き勝手に与えたりはしなかった。
次に諸葛恪が入屯すると、軍営は新品のようであった。それに比較して諸葛恪が入っていた柴桑の旧軍営はメチャメチャに荒れ放題になっていて、深く己を恥じた。
ここでは、陸抗が柴桑の軍営を去る時に、その防衛施設をちゃんと修理して後任に引き継いだのに対し、諸葛恪の軍営はボロボロであり、それを見た諸葛恪は己を恥じたとあります。
この逸話からは、陸抗がちゃんとした人物であるのに比較し、諸葛恪がよく言えば大らか、悪く言えば、いい加減な性格であるという事もうかがえますね。
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陸抗の真面目さが裏目に
元興元年(西暦264年)孫皓が即位すると、陸抗は鎮軍大将軍を加えられ、益州牧を兼領。西暦270年、大司馬施績が死去すると陸抗は、信陵、西陵、夷道、楽郷、公安の諸軍事を都督して楽郷で治める事になります。
この時、陸抗は自分が任された城を真面目に修繕し食糧備蓄を増やして強化していましたが、折角の努力が裏目にでる事になります。西暦272年西陵督を任されていた歩闡が孫晧に叛いて晋に降伏し籠城して援軍を待つ構えを取ったのです。
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西陵城を包囲する陸抗
陸抗は歩闡が叛いたと聞くと、その日のうちに自分の管轄する部隊を分けて、将軍の左奕、吾彦、蔡貢らに命じて西陵に赴かせて包囲を命じ赤谿より故市に至るまでの長い距離を包囲します。
こうして陸抗は、内側に対しては歩闡を包囲し、外に対しては晋の侵略を防ぐように命じたので、周辺は戦慄し、これから晋との全面戦争になるかのように噂し、人民は土木工事の労務が増大し負担にあえぎました。
諸将は陸抗がどうして、歩闡を包囲するのか理解できず、「三軍で総攻撃を掛ければ、晋の救援が届く前に城を落とす事が出来るのに、なぜ包囲戦を継続して民衆を疲弊させるのですか?」と不満ブーブーです。
それに対し陸抗は、「西陵城は地形を利用して築城した堅牢な要塞で、食料も足りていて、防御兵器は全て修理されている。これは全て、私がかねてから定めた命令通りになっていて、今、私が自ら、城を攻める事になったのだが、短期間では落とす事は出来ない。そうこうしている間に敵の救援が来たら、防御も出来ずに挟撃を受ける羽目になるが、それをどうやって防ぐのか?」と反論します。
ところが呉の諸将は陸遜の時と同様に頑固で、陸抗の命令を聞かず再三再四、陸抗に歩闡を攻めようと提案。いよいよ抗しきれなくなった陸抗は「では、攻めてみるがよい」と許可を出します。
喜び勇んで歩闡を攻める将軍達ですが、陸抗の言った通り西陵城はビクともせず、ぐうの音も出なくなった諸将は陸抗の正しさを悟り、ようやく包囲は完成します。
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地形を知りメンテナンスの重要さを理解する陸抗
その後、晋の名将、羊祜は兵を率いて江陵に進軍します。
呉の諸将は再び慌て、江陵を救うべきで上流に陣を敷くのは良くないと騒ぎ始めますが陸抗は落ち着き払っていました。
「江陵城は堅牢で兵は足りていて心配する必要はない。仮に江陵が陥落しても、江陵は交通の要衝でどこからでも攻められるので長期間占領を継続できず、損害は小さくて済む。逆に、西陵が敵の手に落ちれば、南方の異民族が大反乱を起こし、その混乱は計り知れないものになるだろう。私は江陵を捨てようとも西陵を奪還する事を優先する、ましてや江陵は堅牢でありどうという事はない!」
陸抗は江陵が平坦な土地で、周囲を河川が流れている事を利用し、江陵督張咸に川を堰き止めて江陵一帯を水浸しにするように命じ、羊祜の襲撃と味方の離反を防ぎます。
羊祜は、それならば船を使って物資を江陵に運ぼうと考え、堤防を破壊して水を排水すると虚報を出して陽動しますが、陸抗は虚報を見抜き、諸将が止めるのを無視して堤防を決壊させます。
すでに、船に物資を満載に積んでいた晋軍は、水が無くなった江陵城を見て愕然とし、再び、船から車に物資を積み替えるなど膨大な時間をロスしたのです。
このように陸抗は地形を完全に把握し、何をすればどうなるかという事を知り抜いており、少ない兵力で晋軍を翻弄しました。
陸抗は結局、この調子で、やってきた晋の大軍を撃破して追い返し、西陵城を陥落させて歩闡を斬り、乱を鎮圧する事に成功したのですが、地形を把握し城を把握し、理詰めで事務的に晋軍を追い詰めていく様子は、父の陸遜を髣髴とさせますね。
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三国志ライターkawausoの独り言
西暦264年、陸抗は孫休の命令で3万の兵力で永安城に羅憲を攻め半年も包囲しました。この時、永安城内では疫病が流行しましたが、陸抗の包囲軍では疫病が起きていません。
慣れない土地での包囲戦ですが陸抗は永安の土地の状態をよく把握していたという事ではないでしょうか?
孫権も諸葛恪も盛大に外に遠征すると、大体、途中で疫病が大流行して退却を余儀なくされるのですが、陸抗の戦歴には疫病を蒙っての退却がないのです。ここには、やはり城をメンテナンスして返す陸抗の几帳面な性格が表れているように思いますが、皆さんはどう感じますか?
参考文献:正史三国志 陸抗伝
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