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武廟十哲に諸葛孔明が選ばれている理由は何?中国名将ランキングを推察

2021年6月16日


 

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城 銅雀台

 

武廟十哲(ぶびょうじってつ)とは周王朝から唐の時代初期までに活躍した名将10人を選抜したものです。

 

太公望

 

太公望(たいこうぼう)を筆頭に古今の中国の名将11人がピックアップされ廟に祀られています。

 

ちょっとやり過ぎたと反省する諸葛亮孔明

 

まさしく唐代初期までの中国史上最高の名将という感じですが、この十哲には諸葛孔明(しょかつこうめい)が含まれていました。諸葛亮(しょかつりょう)が無能であるとは思いませんが中国を統一したわけでもない一地方政権の丞相が、武廟十哲に含まれているのは違和感がありませんか?

 

そこで今回は中途半端な諸葛孔明が武廟十哲に選ばれた要因を推察します。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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武廟十哲に諸葛亮が選ばれている理由ザックリ!

孔明

 

では、ここで、諸葛亮が武廟十哲に選ばれている理由をザックリ解説します。

 

唐の10代皇帝粛宗(しゅくそう)()は755年、安史(あんし)の乱で長安を追われ蜀にいた
粛宗は自分の境遇を漢を再興するという大義を掲げ蜀で魏を相手に奮闘した諸葛孔明に重ねた。
757年長安を回復した粛宗だが、安史の乱は継続中であり、完全に唐の支配が回復したわけではなかった。
760年粛宗は武廟十哲を選び、その中に諸葛亮をチョイスした
粛宗は762年に死去し、安史の乱の終結を見る事がなかった

 

以上がザックリした記事の内容です。ここからは、もう少し詳しく武廟十哲について書いてきます。

 

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武廟十哲 中国名将ランキング

京劇の関羽

 

では、最初に武廟十哲に祀られた中国史上最高の名将11人について紹介します。

 

王朝 役職 氏名
軍師 太公望呂尚(たいこうぼうりょしょう)

 

(きょうせい)春秋(しゅんじゅう) 大司馬(だいしば) 司馬穰苴(しばじょうしょ)

 

呉(春秋) 将軍 孫武(そんぶ)

 

(戦国) 西河守(せいがしゅ) 呉起(ごき)
(戦国) 昌国君(しょうこくくん) 楽毅(がっき)

 

秦(戦国) 武安君(ぶあんくん) 白起(はくき)

 

前漢 淮陰侯(わいいんこう) 韓信(かんしん)

 

前漢 太子少傅(たいししょうふ) 張良(ちょうりょう)
蜀漢(しょくかん)(三国) 丞相(じょうしょう) 諸葛亮(しょかつりょう)
右僕射(うぼくしゃ)/尚書(しょうしょ)/衛国公(えいこくこう) 李靖(りせい)

 

司空(しくう)/英国公(えいこくこう)  李勣(りせき)

 

こうして見ると、選ばれた11人の内、失脚する事なく天寿を全うしたのは太公望と孫武、張良、諸葛亮、李靖、李勣の6名で最多。

 

韓信

 

次に、非業の死を遂げた人が白起、呉起、韓信の3名。讒言(ざんげん)で地位を追われたり、亡命した人も司馬穰苴、楽毅の2名と必ずしも世渡り上手が選ばれるという訳でもないようです。

 

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関羽

 

諸葛亮が武廟十哲に選ばれた原因は安史の乱

三国志のモブ 反乱

 

しかし、天寿を全うした点を考慮しても諸葛亮の知略が斉の名将司馬穰苴や合従軍の楽毅、劉邦に天下を取らせた張良や国士無双韓信、最強を謳われた白起や兵法書を著した呉起を上回るとは思えません。

 

忙しい方にざっくり解答03 kawausoさん

 

では、どうしてイレギュラーな諸葛亮が武廟十哲に選ばれているのか?

その原因はどうも安史の乱に関係がありそうです。

 

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粛宗は自分の境遇を諸葛亮に重ねた

西遊記はどうやって誕生したの

 

武廟十哲を選んだのは、唐の10代皇帝粛宗で760年の事でした。

 

しかし、彼は簡単に皇帝に即位出来たわけではありません。西暦755年、節度使(せつどし)安禄山(あんろくざん)が唐王朝の外戚楊国忠(ようこくちゅう)と激しく対立した末に挙兵し安史の乱を起こしたのです。

 

玄宗(げんそう)は安禄山を信頼しきって唐軍の大半の指揮権を与えていたので安禄山は連戦連勝し、756年6月には唐の帝都である長安を陥落させました。玄宗は皇太子の粛宗と共に蜀に落ちていきますが、その途上で粛宗は宦官李輔国(りほこく)の進言で新しく皇帝に即位し、玄宗は上皇となります。

 

その後、粛宗はウイグル帝国の支援を受けたり、安禄山の暗殺などの敵の仲間割れに助けられて勢力を盛り返し、757年には長安を回復し、なんとか唐王朝の体面を整える事に成功しました。

 

諸葛孔明は長安を回復できずに死にましたが、粛宗は自身の行動が諸葛亮のそれとよく似ている事を感じていたのだと思います。

 

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中原を回復するぞ!

車に乗る諸葛亮(孔明)

 

長安を回復した粛宗でしたが、安史の乱は終わったわけではありませんでした。安禄山亡きあとも、仲間割れした史思明(ししめい)や安禄山を殺害した息子の安慶緒(あんけいちょ)が存在して唐に反抗していて、特に唐の副都であった洛陽は未だに敵の手に落ちたままだったのです。

 

軍師として大活躍する太公望(老)

 

粛宗が武廟に太公望を祀り、そこに合祀して武廟十哲を選んだのは賊に奪われた唐の領土を回復しようと意気込んでいたその時でした。

 

舌戦で煽るのがうまい諸葛亮孔明

 

諸葛亮は賊である魏に奪われた中国を回復するというスローガンを掲げて、漢の後継王朝を名乗りましたが、粛宗も同じ思いであり、安慶緒や史思明を倒さない間は、本当の意味で唐の復活がなったとは言えないと考えていたのだと思います。

 

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諸葛亮と同じく志半ばで死んだ粛宗

過労死する諸葛孔明

 

唐の天下を回復しようと奮闘した粛宗ですが、武廟十哲を置いてから2年後の762年の4月、父の玄宗が死去して14日後に相次いで死んでしまいました。結局は諸葛亮と同じく、唐の天下が回復する日を見る事は出来なかったのです。

 

粛宗の後を継いだ代宗(だいそう)は、762年の10月に唐とウイグルの連合軍の攻撃で洛陽を回復。ここに都を置いていた大燕(だいえん)史朝義(しちょうぎ)(史思明の子)は洛陽から逃亡しますが、翌年正月には追撃されて死亡しています。

 

敗北し倒れている兵士達a(モブ)

 

ここに7年間継続した安史の乱は終結するのですが、一度傾いた唐の国力は戻らず、兵乱の中で衰えていき滅亡へと向かう事になりました。

 

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kawausoの独り言

kawauso 三国志

 

功績も知略も政治力もどこか中途半端な諸葛孔明が、中国最高の名将ランキング10に選ばれている理由は、武廟十哲を選んだ粛宗を取り巻く政治状況と三国時代の蜀の状況がとてもよく似ていたからだとkawausoは推察します。

 

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関帝廟

 

 

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kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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