諸葛亮の戦略
諸葛亮は魏に侵攻する上で、無理な攻めはできるだけ避けました。1度目は街亭で馬謖が敗れると全軍を撤退させていますし、2度目から4度目は局地戦で大きな戦はしていません。
また、武都と陰平を落とした3度目以外は、兵糧不足による撤退と将兵の損耗は最小限に留めています。
5度目は大規模な戦となりましたが、屯田を行うなど長期戦の構えを見せ、戦いを急ぐことはありませんでした。また、魏延が提案した長安奇襲策もリスクの面から却下するなど、とにかく慎重な攻め方をしていることが伺えます。
このことからも諸葛亮は魏を無理に攻略するのではなく、国力差が開きすぎないようにバランスを取ることで蜀を存続させたのではないでしょうか。
三国志ライターTKのひとりごと
もう一つ根拠に乏しい推論を述べるなら、諸葛亮は国力に大きな差がつかないよう拮抗状態を維持しつつ、魏の内部崩壊を待つという狙いがあったように思います。
諸葛亮は劉備に授けた隆中策において、益州と荊州を領有し、さらに異民族、孫権と手を組み、『天下に変事があった際に』益州より出兵すると説いています。つまり、諸葛亮の基本戦略は人事を尽くして天命を待つということ。
特に曹丕は皇族に権力を与えない構造を確立し、人事採用においても欠点のある九品官人法を施行しました。さらに司馬懿を重用したことで、司馬一族に都合のいい人事が行えるような構造が生まれています。
もしも諸葛亮がこうした魏政権の構造的欠陥に気づいていたとしたら、いずれクーデターなどで国家基盤が揺らぐと確信していたのかもしれません。それを狙って持久戦を行ったものの自身の体が保たず、中途半端な状態で舞台から下りることになってしまったと筆者は考えます。
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