三国志の世界は後漢王朝の秩序が崩壊し、従来の正規兵や地方兵の仕組みも壊れていて、群雄は自前で自分の権力を守る兵力を確保しないといけませんでした。
曹操には有名な青州兵がいましたし、陶謙には丹陽兵が劉焉には東州兵という自前の暴力装置がありました。しかし劉焉の持っていた東州兵は劉焉の死後手のつけられない愚連隊になってしまうのです。それは、どうしてなのでしょうか?
東州兵の誕生
さて、最初に東州兵の誕生の時から解説してみましょう。
東州兵の母体になったのは、長安周辺の三圃の住民、さらには南陽の住民などでした。
三圃の住民は後漢末に吹き荒れた李傕と郭巳の無差別略奪により痛めつけられ、耕作地を捨てて、当時騒乱が届いていなかった益州へと逃れます。
南陽でも、袁術時代の暴政や度々の異常気象、何度も起きた紛争で、やはり住民が流出し益州へと逃れた住民も多くいたようです。
こうして益州に流れてきた住民は数万戸でしたが、劉焉は彼らを手元に留め兵士になれそうな者を選抜して自分の親衛隊としました。それが東州兵でした。
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東州兵を率いた存在
東州兵が元は三圃や南陽からの流民と記述しましたが、彼らは別にバラバラに家族単位で益州まで落ち延びたのではありません。三国志の時代の中国は、本家を頂点に支族が何百、何千戸で集まって生活している氏族社会が普通であり、戦乱で一族が滅茶苦茶にならない限りは、その氏族集団で移動するのが普通だったのです。
数千から数万人にもなる氏族での移動では、襲撃に対する迎撃の人員も選出するでしょうし、集団生活での役割分担も自ずと決定していきます。つまり、長距離を移動する間に、氏族は軍隊のような集団に変化していくわけです。
東州兵も同じであり、呉懿や呂乂、謝援兄弟のような地域の名族がリーダーとなって、氏族の方針を決定していたと考えられます。
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どうして東州兵は劉焉に従ったのか?
では、そんな実力者集団の東州兵は、どうして劉焉に従ったのでしょうか?
一番大きいのは、劉焉が後漢の霊帝により正式に益州牧に任命された人物である事です。
劉焉が益州に入ったのは、益州刺史郤倹が重税で益州人民を苦しめ、馬相に反乱を起こされたのを更迭する為でしたが、その肩書として劉焉は益州牧に任命されたのです。
衰えたとはいえ、まだ存続している後漢王朝に正式に任命された州牧という威光は強く、劉焉は馬相の反乱を鎮圧していませんが、馬相を討った益州従事の賈龍は劉焉を重んじて迎え、劉焉は綿竹に入って統治を開始しています。
もし、劉焉に肩書が無ければ東州兵もスムーズに従わなかったでしょうが、その辺り、劉焉は後漢王朝の威光を最大限に活用し、上手くやりました。
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劉焉の死去
劉焉は、当初は益州豪族を懐柔して上手くやっていましたが、次第に独裁色を強めます。最初に漢中に五斗米道の教祖である張魯を派遣し、漢中太守の蘇固を殺害させました。
そして、わざと長安に通じる通路を焼き捨てて、朝廷には米賊のせいで連絡が取れなくなったと報告します。こうして、張魯を使って後漢王朝の干渉を遮断した上で劉焉は、自分に批判的な益州豪族を次々と粛清。その中には馬相の乱鎮圧の功労者、賈龍もいました。
さらに、劉焉は董卓暗殺による長安の混乱を契機に、東にも影響力を及ぼそうと軍を派遣しますが失敗。2人の息子を失い、失意の内に西暦194年に病死します。
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劉璋の統治力不足
その後、劉焉の後継者として劉璋が入りますが、長安では潁川の扈瑁を刺史として漢中に入らせ、劉焉の後釜を狙わせます。これに荊州別駕劉闔が同調し、劉璋配下の沈彌、婁発、甘寧を離反させて劉璋を攻撃しますが勝てず敗走して荊州に入りました。
さらに、劉璋は漢中を得て傲慢になり命令を無視するようになった張魯に苛立ち、張魯の母と弟を殺害し完全に敵対します。かくして、劉璋は龐羲や趙韙のような益州豪族を使って、張魯を討伐しようとしますが、彼らは五斗米道の軍隊に歯が立ちませんでした。
そこで、劉璋は龐羲や趙韙を見限り、讒言を用いて殺害に追いやります。趙韙は劉璋に対して反乱を起こしますが、劉璋は東州兵を活用して趙韙を敗走させました。趙韙は部下の龐楽、李異に見限られ殺害されています。
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愚連隊化する東州兵
益州豪族を排除すべく東州兵に依存した事により劉璋は、東州兵を制御できなくなります。本来ならば益州豪族を残し適度に双方に恩恵を与えてシーソーゲームをしつつ、東州兵も、益州豪族も自分に懐かせるのが外来政権である劉璋の取るべき手段でした。しかし、劉璋は東州兵に完全に頼った結果、自分が東州兵に依存する羽目になったのです。
英雄記によれば、東州兵は益州に土着する民衆を攻撃して略奪を繰り返しますが、優柔不断な劉璋はこれを制止できなかったとあります。しかし、これは劉璋が優柔不断というより、益州豪族を駆逐した結果として外来の東州兵の機嫌を取る事が政権の維持に欠かせなくなった為でしょう。
一方で東州兵は、劉璋の要請に応えて張魯を討ったか?というとそんな事はありません。ハッキリ言って劉璋は配下であるべき東州兵に完全になめられてしまいました。そして、増大する張魯の脅威に対抗する為、劉璋は張松の意見を入れて、東州兵の100倍危険な劉備を呼び込んでしまうのです。
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三国志ライターkawausoの独り言
その後の東州兵の動きは不明ですが、劉備は自前の荊州兵を入蜀させているので、従来のように横暴に振舞う事は不可能になったでしょう。劉備は、劉璋のように甘くはないので、組織を解体され外来の荊州の部将に配属し直されてしまったのではないでしょうか?
参考文献:正史三国志