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嘘をついて朱桓を発狂させる
237年魏の盧江郡主簿の呂習が偽の投降をもちかけ呉軍を誘き出そうとします。全琮は朱桓と共に身柄受け取りのために侵攻しますが、計略に気づいたので撤退しました。
盧江太守の李鷹は追撃をかけようとしますが軍中に朱桓の節蓋と軍旗があるのを見つけ朱桓を恐れて軍を動かせませんでした。全琮と朱桓コンビの歯車は当初上手く噛み合っていました。
その頃、孫権は全琮と朱桓の元に偏将軍の胡綜を送り詔勅を授けて特別に軍事に参加させていました。
ある時、全琮と朱桓の間で作戦を巡り言い争いが起きます。原因は朱桓が負けず嫌いで他人から命令を受ける事を恥としていたからで、全琮の物言いに上から目線があってカチンときたのかも知れません。
失言に気づいた全琮は弁解しようとし、
全琮「そそそそそ…、それはボ、ボクが言ったんじゃないよジャ〇アン。そうだ!胡綜が大帝様の命令だって、ボボ、僕に押し付けたんだよ」と胡綜に責任転嫁します。
朱桓「なぁにい!あの若僧の胡綜がこのワシに対し指図しただとぉ!!おのれェ…青二才め!こうなったら、ギッタンギッタンのメッタメタのバッキバキのグッチャグチャにしてくれるうううううううううウキイイイイイイ!!」
全琮(ボク、知~らない、しーらない!)
朱桓は胡綜を殺そうとしたので、側近の1人が異変に気付き胡綜に知らせて避難させます。そのために朱桓は胡綜を殺し損ねましたが、胡綜を逃がした側近を斬り殺し、それを諫めた副官まで刺し殺しました。
いくら怒っていてもやりすぎで、まさに精神錯乱でですが、ここまでしてただで済むはずもなく朱桓は捕らえられ病人として建業に送られ治療を受ける事になります。
孫権は朱桓が錯乱した事実を知っていましたが、これまでの功績と能力を惜しんで罪を不問とし子の朱異に軍を率いさせ朱桓の元には医者を派遣し回復すると再び濡須城に戻しました。しかし翌年、朱桓は病気の為に62歳で死去しました。
元々の原因を造った全琮は、特に処罰されませんでしたが、悪女孫魯班の影響か、それとも元々黒い野心が宿っていたのか、次第に全琮は目的の為には手段を選ばない悪党へと変貌していきます。
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芍陂の役を切っ掛けに張氏&顧氏VS全氏が対立
241年、全琮は大都督に昇進、同年に魏の揚州の拠点である寿春に侵攻。芍陂の堤防を決壊させ、兵糧庫を焼き住民を捕虜にします。堤防決壊ですから、ここで多くの住民が水死したのではないかと思います。六安で処罰されても住民を強制連行しないと庇った全琮はどこに消えたのでしょうか?
この芍陂の役は、二正面作戦の大掛かりなもので、荊州方面では朱然が魏の樊城を包囲し、諸葛瑾に柤中を占領させていましたが、蜀漢で戦いに呼応する筈だった蔣琬が蜀の消極派を説得できず、蜀漢の支援は受けられませんでした。
その為に、戦いは一進一退となり、魏呉両軍ともに消耗が激しくなり全琮は241年4月には敗走しています。
しかし、、張休・顧承、顧譚等がなおも奮戦して敵を押し止め、5月に皇太子の孫登が死去すると、全緒と全端は王凌等を反撃して破り魏軍を退却させ6月には呉軍もそう退却しました。
ところが戦後の恩賞は張休や顧承に厚く、全氏一族に薄いものでした。こうして、張休、顧譚、顧承と、全端ら全氏一族は芍陂の役の恩賞を巡り対立します。
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二宮の変で張氏&顧氏を追い落とす
全琮は張氏と顧氏を追い落とそうと執念を燃やしますが、顧雍が丞相をしている間は手が出せませんでした。
しかし、西暦243年に顧雍が在職のまま死去し、その後任として荊州を統治していた陸遜が任命されますが、孫権は陸遜が建業に入る事を認めなかったので建業には豪族の勢力を均衡するバランサーは不在になります。
ここで孫権は、皇太子として孫和を立てながら異母弟の孫覇も対等に可愛がるという意味不明な行動を開始しました。
また、この時孫和には、妻の孫魯班と対立していた孫魯育がついていて、孫魯班は対抗して孫覇を守り立てていました。さらにこの時、孫和派には、張休、顧譚、顧承という芍陂の役で全琮が割を食わされたと恨んでいる政敵がいます。
こうして全琮は、妻が守り立てている孫覇を担ぐ事で、張休、顧譚、顧承を追い落とす事が可能になる一石二鳥状態が生まれました。
孫魯班はモウロクした孫権を騙して孫和と生母の王夫人を讒言、孫権がそれを信じて孫覇を寵愛すると、全琮は自分に敵対した陸遜を追い落とす為に讒言を繰り返し、孫権は陸遜に問責の手紙を送りつけて憤死に追い込みました。さらに、全琮は張休、顧譚、顧承を流刑、そして左遷に追い込みます。
二宮の変では全琮の子全奇が孫覇を肩入れしすぎ、孫覇と共に自害を命じられました。それでも、全琮は246年、共闘していた歩隲と共に全琮は大司馬、歩隲は丞相に任じられ、結果として張氏、顧氏を追い落とす事に成功しました。
暗闘を勝ち抜いた全琮ですが、大司馬にある事3年で249年に死去します。勝者になった全琮ですが、呉は内輪もめで大きく勢力をすり減らし以後は二度と勢力を盛り返す事はなかったのです。
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何故か悪党扱いされない全琮
人生の前半はともかく、後半は明らかな悪党と化していく全琮ですが、三国志演義では悪役と言う位置づけになっていません。大きな理由は、陳寿が正史三国志を執筆する上で参考にした呉書の執筆者である韋昭が、全氏の権勢を憚り全琮の悪事を記録しなかった為であるようです。
その期間は西暦233年から246年の13年間もあり、朱桓を発狂させた話や芍陂の役で堤防を決壊させて住民を水死させた話や恩賞を巡る顧氏との争い、二宮の変の暗躍までがスッポリと省かれています。
陳寿は韋昭の呉書を丸写ししたので全琮を丹念に調べなかったようで、そのせいで全琮はただの呉の重臣のような扱いで終ってしまい地味な人物の扱いです。
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三国志ライターkawausoの独り言
今回は全琮について調べてみました。前半はなかなか有能な人ですが、朱桓を陥れた辺りからダークになっていき、二宮の変では呉の命運に関係なく一族の利益を図る闇将軍に変貌しています。
しかし、陳寿が韋昭の呉書を丸写しにし、あまり全琮の悪事を網羅的に見ていないので、三国志演義では悪役を免れる事になったようです。
参考文献:正史三国志
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