こんにちは。古代史ライターのコーノヒロです。久々の投稿となります。またどうぞよろしくお願いします。
今回は、中国王朝の歴史上、唯一無二の女帝であった「武則天」に注目していきます。その頃、日本では、飛鳥時代末期〜奈良時代初期にあたります。特に武則天が皇帝に即位した期間は、日本の大和朝廷では、女帝「持統天皇」(持統帝)の治世と重なります。
少し詳細を書くと、持統帝が天皇として即位していたのは、690年〜697年なのですが、夫の「天武天皇」(天武帝)の死後、686年〜689年は皇后の立場で朝廷の実権を握っておりました。
さらに、697年〜702年の間は、譲位し、上皇(太上天皇)として朝廷の頂点に君臨していたのです。実に約17年の間は、持統帝の政権だったと言えるのです。
かわって、武則天が皇帝だったのは690年〜705年でした。ですから、この時期10年以上は、中国と日本に、ニ大女帝が存在していたと言えそうです。
さらに加えて言えば、武則天が、「唐」帝国の三代皇帝・高宗の皇后として、執政のような形で政治を動かしていたのは、660年前後あたりからになるようです。つまり、武則天は皇帝になる前から約30年も、ほぼ実権を握っていたという見方もできます。
それでは、まずは武則天の生涯を簡単に見ていきましょう。
下剋上の武一族
武則天は、宮廷に入る前は、元々、「武照」と いう名前だったそうです。身分は高くない武官の娘ということなのです。武照の父親は、商人身分でしたが、建材の商いで成功し、富を蓄えたそうです。その後、武官として、唐の初代皇帝・高祖に仕官したのが、宮廷との結びつきの始まりとのことです。
その縁で、武照は、唐の二代皇帝・太宗(李世民)の側室の一人に名を連ねたのです。このとき、武照は、十代の半ばの年齢でした。
(※余談ではありますが、このような事実を見ると、日本史で例えるなら、戦国期の美濃のマムシ・「斎藤道三」の印象が強くなりますね。)
しかし、結局、太宗の寵愛を受けることや子を産むということは叶わぬまま、太宗・李世民は死去します(649年)。このとき、武照は、まだ20代前半の若さでした。
当時、皇后でもなく、側室で子宝に恵まれなかった女性たちは、皇帝が亡くなると、長安の都にあったと伝わる「感業寺」という仏教寺院(皇室が管理する仏教寺院)に入ることが通例だったそうです。
武照も、そこに入り、髪も切り尼僧となり、静かな生活を送っていたそうです。(※【Wikipedia】情報では、このとき、武則天は、道教寺院へ入り、髪を切らずに修行の身として預けられたとの記載がありますが、
『則天武后』[外山軍治 著・中公新書・1966年] によると、上記のように、仏教寺院にて髪を切り尼僧になったとの記載があります。出典は『旧唐書』・『新唐書』・『資治通鑑』などの中国の歴史書からきているようです。ここでも「仏教寺院の尼僧」説を取りたいと思います。)
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尼僧からの復活
しかし、それから僅か数年、次の三代皇帝・高宗の代で、武照にとっての転機が訪れるのです。高宗が「感業寺」を皇后たちとともに参詣したときに、武照に再会したのです。元々、高宗は皇太子時代に武照とは会っていて、気が合う仲だったようです。
それが、寺院での再会により、お互いを想う気持ちが再び強くなったとも言われています。
ただ、その再会は、当時の皇后「王氏」の策略で、王氏が嫌い、高宗からの寵愛も受けていた、別の側室の「蕭氏」を追い落とすためだったらしいのです。
そういった宮中での嫉妬や権力の争いの中に利用される形で、武照は還俗し、宮廷への復帰を果たすのです。その後は、武照自身が、その争いの渦中で勝ち抜き、皇后にまで登りつめます。ここからは「武后」と呼びましょう。
武后は、その勢いに乗じ、周囲の敵となる勢力を徹底的に追い落とし始めます。前皇后の「王氏」と側室の「蕭氏」」を罪人として、宮中から追い出した上に、鞭打ち百たたきの刑に処し、挙げ句には、処刑してしまったのです。
こういった事実が伝わっていることが、武則天の悪女としての印象が離れられない所以でしょう。その後、武后は、いよいよ政治に積極的に介入します。元々病弱であった高宗を補佐する立場で、しかしながら、実質的に執政を始めるのです。(「垂簾政治」と言われています。)
660年代に入ると、唐帝国は、対外戦争として朝鮮半島への介入をしていきます。新羅と同盟し、百済を滅亡させると、百済の遺臣たちと連合した日本軍を壊滅に追い込み、さらには、唐帝国成立前から長年の宿敵であった高句麗も滅亡させます。(668年)
このときが唐帝国の歴史上、最大版図を獲得した時期でした。ただ、それは、当時、執政として唐の国家を取り仕切っていた、武后の力の賜というよりは、前代の皇帝の太宗・李世民の時代からの勢いの余波と、当時から忠実に尽くしてきた「李勣」を始めとした有能な将軍や軍人たちの力によるものとされています。
高句麗攻略後まもなく、李勣将軍は死去します。ここから、唐の対外戦争には陰りが見えてきます。さらに、唐の宮中では、権力を巡る対立が収まりませんでした。
執政の武后の勢力に対し、反抗する勢力が出てきたのです。追い落としや毒殺や反乱も度々起きました。その度に、武后の命で、反乱の首謀者たちの命を奪うまでになっていきました。そうしているうちに、683年、高宗の病状が悪化し、死去するのです。
女帝誕生
すると、武后は、自身の二人の息子(「中宗」と「睿宗」)を次々と皇帝に立てるも、すぐに退位させます。さらに、これまでの唐王朝の皇室の人間も含めて、武后に猜疑心を持っている人間たちを徹底的に排除し始めます。
庶民も参加できる密告制度も立ち上げ、疑わしい人物たちを次々と連行し、拷問に処し、自白させ、反乱分子たちを見つけだし、芋づる式に排除していきました。
中には、反乱の狼煙を上げる者たちもいましたが、すぐさま、武后側の大軍により鎮圧されたのです。武后側は、場合によっては三十万にも上る軍勢を一気に動かし、反乱分子を鎮圧したようです。
そして、ついに自身が皇帝の座に登りつめるのです。(「則天皇帝」と名乗るようになりました。)いわゆる「武則天」の誕生です。このとき、国号は「唐」から「周」へと改められました。
この武則天の打ち立てた周を、一般に「武周」王朝と言われています。圧倒的な武力と恐怖心で抑えつけようとして、登場した武則天の「武周帝国」ですが、建国から僅か15年で幕を閉じることになります。
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中国史ライター コーノの独り言
謂わば強引に押し進めた政権交代には、反感を持つ者たちが絶えることがなかったということです。さらには、対外的にも同じことが言えるのです。次回は、武則天時代のアジア情勢を解説していきたいと思います。どうぞお楽しみに。
【参考文献】
- 『則天武后』(外山軍治 著・中公新書 )
- 『則天武后 』(氣賀澤保規 著・講談社学術文庫 )
- 『隋唐帝国』(布目 潮風 著栗原益男 著 ・講談社学術文庫)
- 『古代遊牧帝国 』(護雅夫 著 ・ 中公新書)
- 『女帝の古代日本』(吉村武彦 著 ・ 岩波新書)
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