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蜀の戦力
蜀は益州という天嶮に囲まれた場所を根拠地としていたわけですが、その立地もあって物資の輸送に難儀する場面が散見されます。
諸葛亮と姜維の北伐の主な撤退原因は兵糧切れですが、そもそもの国力不足に加えて物資を届けにくいという致命的な問題がありました。加えて、歩兵や騎兵は魏よりも弱く、水軍は呉よりも弱い。
本来、漢中から中原へ出るためには高祖劉邦のように一気に関中を制圧しなければいけませんでしたが、蜀国内の事情や魏の人材の厚さがそれを許しませんでした。
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蜀の北伐が成功する確率はゼロ
総合的に考えると呉は荊州と揚州を擁し、有能な将兵を多く抱えていましたが、それでも致命傷を与えられませんでした。つまり、蜀がどんな条件で戦っていたとしても勝ち目はなかったということでしょう。
仮に荊州を失わず、関羽や張飛などの将や兵力が十分だったとしても主力が益州からの出兵という点で呉よりも不利。
唯一可能性があるとすれば、上記の前提に加えて司馬氏のクーデターのような大きな事態が魏国内で起きた瞬間くらいです。
あるいは蜀と呉の同盟に加えて異民族勢力と魏国内の反乱分子の一斉蜂起がある場合などですが、全盛期の魏はさらに多くの兵力を抱えていたことから、いずれみしても防ぎきられてしまう気もします。
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三国志ライターTKのひとりごと
諸葛亮が始めた北伐は、後漢王朝を引き継ぐという名目で建国された蜀の正統性を示すためのものだったという意見があります。魏は漢王朝から禅譲によって正統に受け継いでいるので、大義名分がなければ蜀漢は逆賊となってしまい、益州の豪族たちも納得しなかったためです。
つまり、北伐とはあくまでも蜀漢という国を存続させるためのポーズで、それを姜維が本気になってしまい、勝ち目ゼロの無謀な戦いに発展させてしまった可能性も。
ただ、逆の見方をすると蜀が自滅をしなければ三国一の国力を持つ魏でさえも他の二国を統一できなかったので、それだけ中国の人口は減少していたのかもしれません。
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【北伐の真実に迫る】