蜀の北伐は無謀だった?呉の事例から見る北伐の成功確率

2021年11月5日


 

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北伐したい姜維を止める費禕

 

三国志における北伐はいくつかありますが、特にイメージが大きいものだと諸葛亮(しょかつりょう)姜維(きょうい)が魏に対して行ったものが挙げられるでしょう。

 

呉の孫権

 

ただ、呉の孫権(そんけん)も度々北伐を行っていて、諸葛亮と姜維が行った10度以上の北伐に比べるとそれなりの成果を上げていると言えます。しかし、それでも魏の基盤を揺るがすには至りませんでした。今回は蜀の北伐が無謀なものだったのか、それとも多少は見込みがあったのかを考察していこうと思います。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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呉の勝率

行軍する兵士達a(モブ)

 

呉は魏から攻め込まれた時の防衛率は比較的高いですが、自ら北伐をした時は負けが目立ちます。北伐は揚州(ようしゅう)荊州(けいしゅう)で二面や三面で戦っているので正確な勝率はわかりませんが、少なくとも蜀の北伐よりは明らかな戦果を上げています。

 

陸遜

 

例えば、濡須口(じゅしゅこう)の戦いでは皖城(かんじょう)を落としていますし、236年(呉主伝では234年)に孫権が陸遜(りくそん)と諸葛瑾に襄陽へ侵攻させた際には、撤退すると見せかけて江夏を急襲し、魏軍に数千という被害を出させ、その後は多くの民を呉に帰順させています。

 

行軍する兵士達b(モブ)

 

また、北伐と呼べるかは微妙ですが、魏軍に数万という被害をもたらした石亭(せきてい)の戦いなど、いずれも数千から数万の敵兵力を削り、いくつかの城を落としています。しかし、大国である魏からすれば、その損害はわずかなものでしかありませんでした。

 

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陸遜特集

 

 

 

三国の人口と兵力

北伐でやりあう曹叡vs孔明

 

蜀と呉が何度攻め込んでも根幹を揺るがすことができなかった魏ですが、三国の国力を人口と兵力から見ていきましょう。

 

同年小録(書物・書類)

 

計測している年代は違いますが、通典という書物によると

魏は260年時点で人口が約440万人(約66万戸)

蜀は263年時点で約94万人(28万戸)

呉は280年時点で約230万人(53万戸)

となっています。

 

進軍する兵士b(モブ用)

 

兵力については上記と同じ年で、蜀10万人呉23万人

 

水滸伝って何? 書類や本

 

魏の詳細はわかりませんが、他の二国が人口の約10%の兵を抱えていたことや『三国食貨志(さんごくしょっかし)』という書物では、魏の最盛期の兵力が67万だったと記載されていることから滅亡時にも40万から45万程度の兵力は有していたはずです。

 

白耳兵を率いる陳到(兵士)

 

つまり、魏は少なく見積もっても蜀と呉を合わせた以上の兵力を有していたことになりますし、それ以外の人口が経済面などを支えていることを考えると、多少戦に負けた程度では痛くも痒くもなかったことでしょう。

 

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三国志平話

 

 

益州の支配管理は難しい

孫権に信用される呂壱(呂壹)

 

蜀は10万の兵に加えて、官吏が4万人いたと言われていて、人口の15%近くが軍事関係という非常に偏った構成でした。呉の官吏は3万2千人だったので、蜀は人口比率から考えても異常なほど官吏が多いと言えます。

 

多様化が進む蜀の国(文官)

 

蜀は南中のような元異民族の支配圏を領有していたので、しっかりと統制を取るためにはそれだけ官吏の数も必要だったのかもしれません。つまり、人口や兵力、将の不足だけでなく反乱を抑えながら戦費の捻出をするのに大きな労力を使う非常に不利な立地で戦っていたということです。

 

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佞臣

 

 

呉の強兵策

三国時代の船 楼船

 

呉は領地の大半に流れる水路と強力な水軍をうまく活用し、兵や物資の補給を行っていますし、その他にも反乱を繰り返す山越族を討伐しては民を自領へ移住させ、屈強な者を兵として軍に組み入れていました。

 

倭と交流を結びたがっていた孫権

 

他にも倭国や現在の台湾、海南地方にも遠征をして、兵力を集めようとしたとも言われていて、人口や兵力の増加に積極だったことがわかります。ただ、裏を返せば呉もそれだけ急場を迎えていたということ。

 

村人(農民)

 

前述した人口と戸数の割合から考えると魏は1戸あたり6人ほどなのに対し、蜀と呉は約4人と明らかに少ないです。これは度重なる戦乱で戸籍から漏れた人も多いと言われている一方、後漢時代の人口が約5647万人だったのに対し、晋の統一時期には約1616万人と激減していることから、それだけ消耗の激しい時代だったということであり、蜀も呉もギリギリのところで戦っていたということでしょう。

 

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TK

KOEIの「三國無双2」をきっかけに三国志にハマる。
それを機に社会科(主に歴史)の成績が向上。 もっと中国史を知ろうと中国語を学ぶために留学するが 後になって現代語と古語が違うことに気づく。


好きな歴史人物:
関羽、斎藤一、アレクサンドロス大王、鄭成功など

何か一言:
最近は正史をもとに当時の文化背景など多角的な面から 考察するのが面白いなと思ってます。 そういった記事で皆様に楽しんでもらえたら幸いです。

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