
228年から漢王朝復興という大義を掲げて北伐を開始した諸葛亮ですが、その戦略意図や目的は不透明です。
長安を目指していたという割には遠回りとなる雍州西部からの進軍が多く、魏延の長安奇襲作戦も却下しています。
また、第二次北伐は20日程度の兵糧しか持っていなかったとも言われていて、本気で魏国領内に侵攻するつもりがあったのか疑問を抱かずにはいられません。
むしろ雍州の半分を奪い、涼州を魏から切り離そうとしていたと考える方がしっくり来ます。そこで今回は諸葛亮が涼州を得た場合に得られるメリットを考えながら北伐における戦略を探っていきます。
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涼州の定義
まず三国志において面倒なのが各州の区分です。後漢末期から三国時代を経て晋に至るまでの間に州の区分が変わっています。涼州もその1つで、人によってはざっくり長安より西が涼州という印象の人もいるかも知れません。
そこでまずは定義をハッキリさせておきます。後漢時代における涼州は洛陽や長安のあった司隷州から西側を指していますが、曹丕が220年に区分を改定。
その結果、旧司隷州の一部と旧涼州の一部が統合されて雍州となりました。ややこしいのは、それ以前にも雍州は存在していましたが、後の雍州とは場所も違いますし、曹丕が復活させるまで涼州に併合されていたため、どの時代のどの地域かを正確に述べなければ勘違いが起こることです。今回述べる涼州というのは曹丕の区分改定後を指し、雍州の北部、北西部を指します。
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諸葛亮が涼州を目指していた根拠
諸葛亮は第一次と第四次北伐で祁山へと進出している他、第三次では武都から陽平を攻めるなど長安とは真逆の方向へ攻め込んでいます。
第二次北伐の際には陳倉へと攻め込んでいますが、冒頭で述べたように携行していた兵糧が少なかったことから本気で陳倉を攻めたとは考えられません。そのため、第三次につなげる陽動だったという説もあります。
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【北伐の真実に迫る】
五度目の五丈原もほぼ同じ
諸葛亮最後の北伐はそれまでとは違い、長安に近い五丈原に進軍していますが、郭淮伝を見ると基本方針は変わっていないことがわかります。
それは郭淮が司馬懿に対して、諸葛亮が五丈原から北原に兵を進め、北山に至って雍州西方との道を断絶し、さらに異民族や周辺の住民を糾合すると魏にとっては不利益になると意見を述べている部分。
五丈原の戦いは諸葛亮伝でも記載が少ないことから戦闘が起きていないと思われがちですが、当初は五丈原の北にある北原、そして東にある陽遂を狙う攻防戦が繰り広げられていました。
ただ、いずれも郭淮が諸葛亮の動きを読んで先読みしたことから、戦況は次第に膠着状態へ。諸葛亮が司馬懿に女性ものの衣類を送るなどして挑発をするのはその後の話です。
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活路は涼州にあり
5度の北伐全てで諸葛亮は魏から雍州西部と涼州を切り話そうとしたわけですが、その理由は軍事力の増強です。蜀は益州からの出兵で兵糧輸送に難があり、短期戦で勝負を決しようにも兵力差の問題があります。
その点、涼州は馬の産地として有名であり、涼州の騎兵は精強です。さらに涼州方面は羌族などの異民族が多いので軍事力の増強にはもってこい。
さらに、天水や南安などは蜀との国境線に近いことから、有事の際には食料を徴収されるなど不当な扱いを受けていて、反感を覚えている民も多くいました。そういった場所を扇動することで、魏の兵力を分散させられれば長安強襲の成功確率も高まります。
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経済面における打開策
涼州方面を抑えることのメリットは兵力の問題だけでなく、当時開通していたシルクロードの交易を独占するという点も挙げられます。オアシスの道と呼ばれたルートは、涼州にある敦煌を通って長安へと続いていました。
つまり、その中間にある雍州以西を抑えることで交易を遮断、あるいは税金を課すなど一定の手数料を得ることもできたはずです。また、諸葛亮は北伐以前に南中へ南征を行っていますが、こちらの目的も西南ルートのシルクロードから交易の利を得るためだったという説もあります。
益州は領土が小さいことから、蜀が経済面を大きく向上させるには、こうした交易路の確保が不可欠だったのではないでしょうか。
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大月氏とのつながり
明帝紀には229年に大月氏(クシャーナ朝)の波調が朝貢のために使節を派遣したとあります。これは曹真の功績によるところとありますが、肝心な部分の記載がされていません。
曹真伝から読み解けるのは、諸葛亮の第一次北伐の際に、安定郡の『月支城』に立て籠もった反乱分子の楊條を曹真が降伏させたことのみ。
月氏と月支は文字も似ていることから大月氏と何かしらの関係があったのではと考えられています。さらに大月氏は後漢初期に班超と争って敗北し、そこから毎年朝貢をするようになっているので、その存在は三国時代の人たちにも伝わっていたのかもしれません。
そうであるなら、西方の異民族と手を結び、対魏の戦力とする考えがあった可能性もあります。
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諸葛亮の北伐戦略
諸葛亮は蜀の国力が非常に脆弱であることを理解していたので、直接長安を狙うという無謀な作戦ではなく、魏と涼州との連絡を絶ち、そこから反乱や異民族の懐柔、交易路の確保と管理を行って利益を得ることで魏との戦力差、国力差を埋めようという戦略だったと考えられます。
結果的にはいずれもうまくいかず、魏軍によって阻まれてしまいましたが、蜀の懐事情を理解している諸葛亮らしい戦略と言えるでしょう。ただ、残念なことは諸葛亮には人を見る力がなかったこと。
馬謖が言いつけを守って大軍が通れない街道を1ヶ月程度死守していたなら、すぐには降伏しなかった隴西や広魏も落ちていたはずですし、雍州西部を得ていたなら諸葛亮の作戦も半分近くは成功していたでしょう。
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三国志ライターTKのひとりごと
諸葛亮のあとを継いだ姜維は隴西方面を中心に北伐を行っていて、諸葛亮のように道を寸断するのではなく、自らが直接涼州へ進出しようという動きにも思えます。
諸葛亮は姜維に戦略の概要を伝えていたのかも疑問ですが、少なくとも諸葛亮は大きな損害を出すことを避けたのに対し、姜維はそれほどリスクを考えていなさそうです。ただ、姜維には諸葛亮とは異なる独自の戦略があったのかもしれません。
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