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関興は関平の代役?
史実における関興は馬良の死後に侍中・中監軍に任命された事と諸葛亮が才能を買っていた事くらいしか記載がありません。それにも関わらず、演義では数多くの戦に参戦して功績を上げているなど大きな違い見られます。
正史と演義の違いは非常に大きいですが、特に注目をしたいのは正史では文官系だったのに対し、演義ではゴリゴリの武将になっている点です。この武将系のキャラは一体何処から来たのでしょうか。
演義編纂以前の元代に作られたとされる三国志平話では、当時人気のあった張飛や関羽が主役ポジションで、関羽の死後は夷陵の戦いを少し多めに描く程度で、それ以降はかなり駆け足で物語が締めくくられています。
そんな中で、史実と違う活躍をしているのが関平です。平話における関平は樊城の戦いでは死なず、諸葛亮の南征に参戦している他、第一次北伐まで名前が出てきます。これは演義における関興のポジションに似ているように思えます。
そこで考えられるのは、演義の関平は前述したように岳飛との同一視の流れから父とともに死ぬ方向となり、関羽の死後にも活躍する息子ポジションが次男の関興に移行した可能性があるということです。
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三国志演義の成り立ち
演義は編纂に際して関羽と諸葛亮を前後半の主人公に位置づけ、曹操及び魏を敵役としています。これも時代背景によるもので、南宋時代に守護神として神格化された関羽と諸葛亮は明代以前から人気が高く劉備勢力の視点から物語を描く上で欠かせません。
さらに南宋時代あたりから魏を正統な王朝とする流れから蜀漢を正統とする流れへと移行していることが物語の構成に大きく影響していると言えるでしょう。
また、前半部分では劉備が主役のような見せ方をしつつも、戦闘において活躍するのは関羽や張飛といった配下の武将たちです。関羽と劉備の死後は諸葛亮がバトンを引き継ぐわけですが、軍師である諸葛亮にも劉備のような戦闘時に活躍する両腕が必要だったはず。
そこで白羽の矢が立ったのが、関羽と張飛の息子である関興と張苞だったのではないでしょうか。
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三国志ライターTKのひとりごと
宋代には三国志関連の説話が多く生まれたようですが、それを聞いた人たちは劉備が勝つと喜び、曹操が勝つと悔しがったと言います。それを考えると当時人気のあった関羽の死は、受け入れられない人も多かったのかもしれません。
関羽が死後も亡霊となって呂蒙を呪い殺し、曹操の夢枕に立ち、仇である潘璋と対峙する関興を援護するといった見せ場が用意されているのが関羽ファンに対する救済措置だとすれば、関興が活躍することも関羽という存在が物語から完全に消えたわけではないというアピールなのではないでしょうか。
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