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関平と関興はなぜ脚色された?偉大な父親と時代背景に翻弄された2人の息子

2022年2月22日


 

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関羽と関索

 

三国志の名将として知られている関羽(かんう)には二人の息子がいます。1人は関羽とともに若い頃から戦場に出て樊城(はんじょう)の戦いで父とともに討ち死にした関平(かんぺい)。もう1人は諸葛亮(しょかつりょう)から期待されていたものの若くして亡くなった関興(かんこう)です。

 

正史三国志_書類

 

この二人は正史三国志における記載が少なく、どんな人物だったのか詳しくは分かっていません。しかし、三国志演義では関平は関羽の養子という設定になっていて、徐州(じょしゅう)の戦いで曹操(そうそう)に敗れて散り散りになった劉備(りゅうび)三兄弟が合流する頃から関羽と行動をともにしています。

 

父・関羽とともに亡くなる関平

 

関興も関羽の死後には夷陵(いりょう)の戦いに参戦し、仇である潘璋(はんしょう)を討って青龍偃月刀(せいりゅうえんげつとう)を取り返すなど活躍が見られる他、その後も蜀の次世代の武将として諸葛亮の南征や北伐に従軍しました。今回はこの2人の息子がなぜここまでの脚色をされたのかを考察していきたいと思います。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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関平は実子か養子か?

関平

 

演義における関平は関定(かんてい)という人物の次男という設定で、関定の屋敷で劉備と関羽が再会した際に、関定たっての希望で関平が関羽の養子となっています。

 

蜀志(蜀書)_書類

 

正史では明確な記述はないものの、孫権(そんけん)に捕らえられて斬首された際に「関羽と息子の関平を臨沮(りんしょ)で斬首した」という記載があることから実子である可能性が高いです。

 

西遊記巻物 書物_書類

 

また、関帝志(かんていし)という書物では178年に関羽と妻の胡氏(こし)の間に関平が生まれたという記載もあります。そのため、養子というのは演義における脚色であって、史実では実子だったという意見が一般的です。

 

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関羽

 

 

 

三国志演義で関羽の養子設定になった理由

三国志演義_書類

 

演義の関平は養子設定をされている以外に大きな脚色はありません。史実と同じく関羽とともに斬首された点も同じなので、あえて養子のエピソードを挟む必要はないように思えます。

 

関羽の青銅像

 

筆者は当初、関羽を義理堅い人物と見せるための演出かなと考えましたが、時代背景を見ていくともう少し深い理由があったのではないかと考えを改めました。

 

岳飛

 

その理由は南宋後期から人気を高めていく岳飛(がくひ)の存在です。

 

岳飛(南宋の軍人)

 

岳飛は南宋の忠臣で、金との戦いで活躍しました。

 

背中に尽忠報国の入れ墨がある岳飛

 

その死に関しても冤罪で極刑に処されるという悲運なもので、冤罪が晴れてからは顎王に封ぜられるなど印象が変わっていきます。

 

秦檜により冤罪で処刑される岳飛

 

そして関羽と岳飛は壮絶な最期や忠義の士である点、三国志時代の荊州(けいしゅう)方面から北伐をしていることなど共通点が多々あるので、中には岳飛を関羽の生まれ変わりとする説もあるなど同一視されていました。

 

岳雲

 

そんな岳飛には5人の息子がいますが、長男の岳雲(がくうん)と次男の岳雷(がくらい)は養子だったという説があります。そして岳雲は父とともに処刑されるなど関羽、関平親子と似た最期を迎えているので、演義でも岳飛側に寄せるように関平を養子としたのではないでしょうか。

 

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北宋・南宋

 

 

岳雲の実子説と養子説

同年小録(書物・書類)

 

岳雲が養子だったという記載は「宋史(そうし)」に記載されているのですが、他の書物では実子だったという記載があります。

 

歩練師(女性)

 

岳飛は生涯を通して2人の女性と結婚していますが、岳雲と岳雷は前妻であった劉氏(りゅうし)との間に生まれた子供です。しかし、劉氏は岳飛が戦地に赴いて家庭が困窮した際に2人の息子を連れて他の人と再婚をしました。

 

称徳天皇(女性)

 

その後、岳飛は李娃(りあ)という女性と再婚するのですが、成長した岳雲が岳飛の麾下(きか)に加わっている所をみると後に連れ戻した可能性が高いです。つまり、もともとは実子であったが、他家の子供となった息子を連れ戻したから養子になった。あるいは後妻である李娃を本妻として捉えるために、劉氏との婚姻関係が曖昧なものとなり養子とされたのかもしれません。

 

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はじめての漢王朝

 

 

三国志演義の時代背景

三国志演義の作家 羅貫中

 

三国志演義ができたのは明代とされていますが、岳雲を養子として扱っている宋史が編纂されたのが元代後半の1345年です。

 

徹底抗戦を主張し宮廷で孤立する岳飛

 

また、南宋から元代にかけては岳飛を題材とした戯曲が人気で、三国志演義も元代の戯曲を引用している点を考えると岳飛との関連性は無視できません。

 

さらに岳飛は明の太祖の時代に、37人の名臣の1人として祀られるなど人気が高い様子が伺えます。明の14代万暦帝(ばんれきてい)の時代には関羽と同じく帝王の称号を加増されている事からも、この辺りでは同一視が始まっていたと言えるでしょう。

 

京劇の関羽

 

つまり、三国志演義はこうした岳飛という時代の人気者と関羽が同一視される中で生まれた可能性があり、エピソードの中にも岳飛と関羽の親和性が高い話を挿入する方が大衆受けしたのではないでしょうか。

 

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関帝廟

 

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TK

TK

KOEIの「三國無双2」をきっかけに三国志にハマる。
それを機に社会科(主に歴史)の成績が向上。 もっと中国史を知ろうと中国語を学ぶために留学するが 後になって現代語と古語が違うことに気づく。


好きな歴史人物:
関羽、斎藤一、アレクサンドロス大王、鄭成功など

何か一言:
最近は正史をもとに当時の文化背景など多角的な面から 考察するのが面白いなと思ってます。 そういった記事で皆様に楽しんでもらえたら幸いです。

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