晋王朝は司馬懿の孫である司馬炎によって建てられた王朝。天下統一、そして三国時代の終焉を迎えさせたとして有名な王朝です。
しかしその王朝も一旦終焉を迎えました。今回はこの晋王朝をより知って頂くべく、東晋と呼ばれる時代をご紹介していきましょう。
西晋のおさらい
まずちょっと西晋のおさらいです。
司馬炎によって建てられた晋王朝、この王朝は司馬炎の息子……の妻である賈皇后が色々とやらかし、八王の乱と呼ばれる一族での内乱によって国が乱れ、国力の減退を招いている間に力を付け、南下してきた北方民族、南匈奴の劉淵が漢王を称して建国された漢の国によって終焉を迎えます。
最終的に316年には劉淵の息子、劉聡によって晋は滅びました。ここまでが主に西晋、と呼ばれる時代です。
関連記事:司馬炎はなぜ呉を滅ぼすのに15年かかった?中華統一はどうでもいいの?
関連記事:八王の乱とは?残念すぎる三国志の真の結末であり中国史上最も醜い争い
晋は死にましぇん(40代以上笑うトコ)
しかし晋はそこで滅んだわけではありません。後続の一人であり、司馬懿の四男の孫に当たる司馬睿が江南の地に逃れていたのです。そして317年、建業で元帝として皇帝の位につき東晋を建国しました。晋は再び蘇ったのです。
……ここで三国志ファンならこの地、建業が元々「晋によって滅ぼされた呉の首都」であることに、不思議な縁を感じるかと思います。これもまた晋という時代の面白さ、どんどん見ていきましょう。
関連記事:【五胡十六国】ねぇ?三国志の後ってどうなるの?アフター三国志を紹介
関連記事:王敦とは何者?魏延の乱を超えろ!東晋建国の功臣であり裏切り者
馬と王氏のコンビ政権
さて晋を再建国としたとしても、皇帝は亡命してきた人物であり、権力は殆どありません。このため司馬睿は江南の豪族と上手く付き合うことにしました。
余りに権力がなかったために「王と馬とが天下を共にしている」と評価されるほどでしたが、地方豪族に頼るしか方法はありません。
ある程度力を付けてからは豪族たちの権力を抑えようとするも、逆に反乱を起こされてからは「もう一度一緒にやって行こう」と謝罪をするなど、皇帝とは名ばかりの厳しい現状のまま、司馬睿は亡くなります。
関連記事:これはビックリ!三国志の時代にも曲芸があった!当時の娯楽がじわじわくる
お飾り皇帝
後を継いだ明帝は名君であり、豪族らが起こした王敦の乱を鎮圧するなどして皇帝の権力を高めることに成功したと思われるも、彼は27歳という若さで亡くなってしまいます。
これ以後は殆ど皇帝というお飾りとなり、重臣たちが権力を握ることとなりました。
一方、北では八王の乱、永嘉の乱と国は荒れ果て、洪水、日照り、イナゴと乱れに乱れた土地を捨て、民衆は江南へと移住していきました。
関連記事:【キングダムの登場人物の子孫達】東晋時代の王賁の子孫の政治手腕と軍事手腕がヤバイ!
北府軍と西府軍
東晋の軍は首都近郊に駐屯して北の守りを固める北府軍と、荊州に駐屯して西の守り固める西府軍、二つの巨大な軍によって成り立っていました。
二つの軍の力が強大でありながら拮抗していたために、東晋の時代が成り立っていたとも言えます。しかし桓温という人物の台頭により、西府軍によって東晋は危機に陥ります。実際、簒奪一歩手前までいきましたが失敗、病死、となんとか東晋はこの危機を乗り越え……たように思えましたが。
関連記事:科挙の参考書に載った諸葛亮のヘタうま名文
関連記事:ゴシップ満載!夏目漱石もペンネームを取った世説新語とは?
【次のページに続きます】