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清河長公主は曹丕より10歳以上年上
その理由の大きな物として、公主の生母が劉夫人であるということです。劉夫人は曹操の第一夫人で、早くに亡くなりました。曹丕たちは第三夫人の卞夫人の子です。
それで曹丕は曹操が32歳くらいの時の子。劉夫人の長男の曹昂が197年に少なくとも20歳は過ぎており、この時に曹丕が10歳。劉夫人は早くに亡くなったとされているので、同母の公主も曹丕よりもだいぶ年上だったことでしょう。
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幼い曹丕に姉の縁談は邪魔できない
丁儀との縁談がいつぐらいに来たのかは分かりませんが、女性の結婚は割かし早めな時代。また丁夫人と曹操が197年後に離縁していて、丁夫人は劉夫人の死後にその子たちを育てていたとあるので、この前後くらいに縁談があったと仮定すると、曹丕はまだ幼かった可能性があります。
なのでまだ姉の縁談にどうこう言える立場ではなかったのではないか?ていうかそもそもとして曹丕が丁儀を嫌いだった理由の一つに後から言われたのではないか?
という一件を考えてみました。
元々曹丕は人の好き嫌いが激しいので、丁儀と仲が良かったというのは絶対にないと思いますが……そうだとしても、曹丕が丁儀を嫌いな理由が後付けで「丁儀が醜いから」とされたとすると……やっぱり丁儀、かわいそうですね。
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三国志ライター センのひとりごと
最後に小話を一つ。丁儀、丁イには伝がありません。この伝が残されていない理由に、二人の子供に陳寿が「原稿料頂戴」と言った所「やだ」と言われたから怒って書かなかった……という話があります。
とは言え二人揃って処刑されているので、そもそも子供も残っていなかったのでは……とも言われていて、真偽は定かではありません。個人的には陳寿先生の人間味(と言って良いのか?)が見えて、ちょっと好きな話ですね。
チャポーン。
参考文献:魏書任城陳蕭王伝 魏略
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