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蜀に入る以前の史料がないのは馬岱が子供だから
馬岱の生年、没年は分かりませんが、判断材料の一つに馬超とホウ徳の戦歴があります。203年、馬超はホウ徳と兵を率いて郭援討戦を行っています。
ここに馬岱の名前はなく、後、208年の馬騰の入朝において、馬騰は子の馬休、馬鉄を伴っているものの、ここでも馬岱の名前は出てきません。馬騰が甥を伴わなかったのは、まだこの際に馬岱が幼かったからなのではないかとも考えられます。
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幼い馬超の子を補佐して馬超の養子になる
さて典略によると、馬超は張魯の元から離れる際に妻子を置いて行ってしまい、息子は後に曹操に殺されたと言います。これが214年として、後に馬超には馬承という子がいて、この子が馬超伝では222年に父親の爵位を継いだ、となっています。
これらを合わせると、馬超は214年に妻子を失って後継者がいなかったので、従弟で年が離れていた馬岱を養子にして後継者とした。臨終の際に馬岱を祭祀に指名したのも養子にしていたためだし馬承という子供がいたので爵位はこちらに。
蜀に来て生まれた子と考えるとそもそも馬承は幼過ぎたのも理由の一つ……となるのではないかと思ったのですが、どうでしょう?馬岱は馬超の養子説、結構有り得るのではないかと思います。
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三国志ライター センのひとりごと
全く関係ない余談ですが、筆者は従兄弟たちとほぼ10以上、20近く離れており(全員上です)。何となく「従兄弟はだいたいそれくらい離れている」という意識がありました。
なので馬岱が馬超よりかなり長生きしていても不思議はなかったのですが、改めて「馬超死んでから馬岱結構生きているな」と思うと、もしかして年が離れているの?という疑問が持ち上がりました。
典略をそのまま考えると、馬超が妻子を置いていったのは既に馬岱がいるからこの子養子にすればいいか……という考えがあったのでは、とも思うのですが、いかがでしょうかね?
参考文献:蜀書馬超伝 典略 魏延伝 晋書宣帝紀
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