呉の虎、諸葛子喩……の息子、諸葛恪。幼い頃から才気煥発であると同時に、その才能故に家を大きくするのも、潰すのもこの子、と予見された人物。
その最期が大敗からの人心を失い、クーデターで一族皆殺しとなったことからかなりの問題児という印象ばかりが残ってしまいますが、その才覚は間違いなく諸葛の子でした。
今日はそんな諸葛恪のとりかへばやを考えてみましょうか。
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諸葛瑾の子で皇太子孫登の学友諸葛恪
諸葛恪は諸葛瑾の子、幼い頃から頭がいい……というか、逸話を見ると「口が達者」というような印象を受ける、そんな子でした。しかし孫権からその才能を愛され、もちろん本人自身の才覚もあり、いくつもの手柄を立てて行くことになります。
そして諸葛恪は張休・顧譚・陳表とともに皇太子の孫登の側近となり、四友と呼ばれたのですが……この孫登が早逝してしまいます。
その後、二宮の変が起こり、諸葛恪は孫和派となりますが……息子の諸葛綽は孫覇派で、後に諸葛恪によって毒殺されたとされています。ともあれ孫権から後事を託され、諸葛恪は呉の実権を握っていくようになりました。
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東興で大勝利した直後、合肥を攻め大敗、孫峻に殺される
そんな諸葛恪が魏に大勝利したのが東興の戦いです。この戦いでは攻め寄せて来た魏を丁奉と共に見事に迎撃、大勝利を収めました。
しかしながら諸葛恪はこの勝利で調子に乗ったのか、半年もしない間に魏を攻撃しようとします。反対意見は続出したものの、押し切って大軍を率いて攻撃したのが合肥新城。結果は大敗北に終わり、そこからもう既に彼は人望を失い切り、最期は暗殺されました。
一方で東興の戦いで敗北した司馬師は責任を取ろうとする形で諸将の人心を集めてその後……となるので、何にせよここが運命の分かれ目だったのでしょうか。
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口先だけなら天下一だった諸葛恪
前述したように、諸葛恪は才気煥発で口達者でした。それこそ皇太子の孫登であっても言い返したほどで、多くの相手(主に張昭)をやり込めた逸話が残されています。
ただしそんな所を孫権は良く愛したようで、孫権が「お前の父と叔父のどちらが優秀か」と問いかけて諸葛恪は「父です。仕えるべき主君を良く知っているからです」と即答して「藍田生玉」という称賛を送られたほど。
ただ、何となくこの諸葛恪の即答が父への尊敬だけでなく、孫権相手に良い答えを出した……という印象もちょっと受けてしまうんですよね……穿ち過ぎですね、筆者。ともあれそんな諸葛恪のとりかへばやを考えてみましょうか。
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諸葛喬と取り替えると寿命が心配
諸葛喬は諸葛瑾の息子、諸葛恪からすると弟になる人物です。才覚こそ諸葛恪には及ばないもの、その性格の良さは父譲り、時に父以上とまで言われた存在。
叔父の諸葛亮の養子となるも、25歳の若さで早逝しました。諸葛恪がその身を滅ぼしたのは、大体が驕り高ぶり人心を失ってしまったからこそ、ならば父親譲りの性格だった諸葛喬が同じ立場に立っていたならどうなったでしょうか?
少なくとも早々孫峻からクーデターを起こされることはなくなると思うのですが……ネックとなるのは寿命問題ですね。
諸葛喬が亡くなれば弟にその座が回ってきますから……何とも難しい所です。
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費禕と取り替えるとお人好し過ぎて孫峻に負けるかも
因みに費イは呉にやってきた時に孫権が一同こぞって無視したので「ここにはロバしかいないみたいですね」と言って諸葛恪の逆鱗に触れた一件があります。
この一件、費イ伝によると「諸葛恪は口で勝てなかったよ」となっているので、珍しく諸葛恪が勝利できなかった相手でもあります。
費イは慎み深く、人が良い性格で、優秀でありながら仕事が早く、何気に孫権が気に入っていた外交官です。ただし他人を信用しすぎる性格だったので、孫峻相手ではいずれ暗殺された可能性もあるでしょう。
末期の蜀を支えるのと同じくらい、末期の呉も中々に難しい仕事場ですね。
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