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劉璋は覇者の器ではなかった
さてこの後、何とか生き残った息子の劉璋が後を継ぎますが、漢中で張魯が独立。取り込んだはずの五斗米道で地盤を固められるという事態に。果てに劉璋は人心を失い、ご存知の通り益州は劉備に奪われてしまいます。
劉焉は益州で漢王朝から独立、一国一城の主を目指したのかもしれません。しかしその野心は果たされることはなく、後にやってきた劉備に全てを奪われてしまうというのは何とも皮肉なものですね。
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劉備に皇帝への道を開いた皮肉な生涯
さて劉焉は益州で独立を目論んでいたと思います。それに対する行動は早く、考えていたことも間違いはなかったのでしょう。しかしたった一度、自ら離れたはずの中央に目を向けたばっかりに大切なものを失い、失意のままこの世を去りました。そしてその一族は益州で国とはなれず、後に劉備が蜀という国を作りました。
劉焉のその死因は病死です。決して劉備が討ち取ったから死に、蜀を奪われたのではありません。
しかし劉焉が基盤を築いていたからこそ、劉備は蜀の地で国を起こせたのだとも言えるのではないでしょうか。そう考えると直接関わり合いはないものの、劉備の道を拓いたのは劉焉……とも言えますね。歴史って、面白い。
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三国志ライター センのひとりごと
さて最後にある出来事を振り返りましょう。劉焉は中央から逃げようとしていました。
そんな彼が益州に来たのは、たった一言。「益州に天子の気あり」この予言、決してよ迷い事ではないのです。だって後に益州には皇帝が生まれたのですから。しかしその皇帝は、決して天下を治めることはできなかったのです。天の意は、どこにあったのですかね?
どぼーん。
参考文献:蜀書劉二牧伝
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