殷王朝とは紀元前17世紀に成立し遅くとも紀元前1046年に滅亡したとされる中国最初の王朝です。考古学で確認できる最古の王朝である殷は、その後の中国王朝の原型であり、同時にまるで違う政治システムも持っていました。今回はとても不思議な殷王朝の特徴について解説しましょう。
この記事の目次
殷王朝の誕生
甲骨文字は殷の時代になってから誕生、発展するので、殷王朝の成立前に文字史料はありません。
そのため、考古学上の遺跡発掘に頼る事になりますが、それによれば河南省鄭州市の二里岡文化で大規模な都城が発掘されこれが殷の建国者、天乙(湯)の都、亳と推定されています。
二里岡遺跡は周囲約7kmの城壁に囲まれた大規模な都城で城壁の外に骨器や陶器を作る大きな工房群が位置し、その中に2つの青銅器工房もある事から青銅器文明であった殷の都とされています。
しかし、欧米の考古学者は殷墟と違い、二里岡遺跡から文字の出土がない事から、ここを殷王朝発祥の地とするのは慎重な立場です。
殷王朝とは?
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殷が起こるとは?
殷が起こるとは、殷王朝が中国の支配者になるという意味です。司馬遷の史記によると、殷の前に天下を治めていた夏王朝の桀王は暴政を敷き、その治世はひどく乱れました。
これに対し殷の湯王(天乙)は天命を受け悪政を正す大義名分を掲げ、伊尹の助けを借りて反乱を起こし、鳴条の戦で夏軍を撃破してその支配下の各都市を破壊、夏王朝を滅亡に追い込んだとされます。
しかし、これはあくまでキレイゴトであり、考古学調査によれば、夏王朝の都市のひとつ望京楼遺跡では、殷軍による激しい破壊と虐殺の跡が発見され、遺骨の多くは手足が刃物で切断されたり顔が陥没するなど無残な状況で、実際は殷が力によって、中原の支配者の座を勝ち取った様子が窺えます。
夏王朝の遺跡としては二里頭遺跡があり、時期的に二里岡遺跡に先行し、人口も2万人と当時の世界ではトップクラスの都市だった事が分っています。
ただし、夏王朝遺跡に文字の出土はなく、本当に夏王朝が建国されたのか?周辺に影響を及ぼした都市の1つに過ぎないのではないか?など殷王朝に先行する王朝として認めるのには慎重な意見があります。
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殷王朝 読み方
殷王朝ですが、殷墟から出土した甲骨文字には王朝名及び「殷」は見当たりません。つまり殷の人々は自分達の事を殷人とも殷王朝とも呼んでいなかったのです。逆に殷墟では商という文字が出土し殷人は自分達を商人、王朝を商王朝と考えていた可能性もあります。
殷を滅ぼした周は先代の王朝名として「殷」を用い、その事から商は殷と呼ばれるようになりました。殷は商を見下した呼び名とも言われますが、殷の字義は賑やか、繁栄、厳かとポジティブな意味しかなく蔑称とは違うようです。
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殷王朝 遺跡
殷王朝は成立から滅亡までに何度も遷都を繰り返しているようです。鄭州の都城遺跡から6キロメートル離れた地点には偃師商城と呼ばれる殷の都城が発見され規模は鄭州都城と同規模でした
さらに安陽市の殷墟の北東には洹北商城と呼ばれる遺跡が発掘され、18代殷王陽甲、19代盤庚、20代小辛が首都を置いた可能性もあるそうです。ただ文字遺物は出土せず詳しい都の成り立ちは分かりません。
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殷川 殷王朝を産んだ洹水
殷王朝が最終的に都を置いたと考えられるのが殷墟で紀元前1300年頃から滅亡まで300年近くも存在しました。
殷墟は、洹水南岸にあり甲骨文字が小屯村で出土することが契機で発掘が始められその地区が宮殿および工房と考えられ首都の存在が推定されました。その規模は東西6キロメートル南北4キロメートル、面積は24万平方メートルに渡ります。
殷墟は洹水をはさんで北岸と南岸に分かれ、、南岸に小屯村(および安陽市)などが位置し、北岸には武官村などが位置しています。この洹水が殷文明のゆりかごだったようです。
武官村一帯には王の墓とも呼べる13基の大規模な墳墓が発見され、22代の武丁以降8代は密集して存在します。そのなかで遺物が発見されていない墳墓は、殷朝最後の王である紂王のもので、殷王朝滅亡により埋葬されなかった墳墓であると考えられています。
小屯村一帯は武丁以降の甲骨や青銅器が集中して発掘され小屯村北東部が宮殿の位置する殷墟の中心と考えられ、村の周囲から工房跡なども見つかっていますが城壁の痕跡がなく、本当に殷の首都だったのか疑問も持たれています。
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殷王朝の出土品
小屯村北東部では、22代殷王武丁晩年の妃であった婦好の墳墓が未盗掘の状態で発見されています。婦好は妃であるだけでなく軍事に関しても才能を示し、羌を討伐するために13000の兵士を率いた記録もあり、墳墓からは青銅の武器も出土しています。
墳墓は10メートルも掘り下げた地下に造営され、6匹の犬のほか、少なくとも16人の殉死者、副葬品として440以上の青銅器、約600もの玉石器、石彫類、骨角器、約7,000枚の貝貨が発掘されました。
手厚い埋葬を見ると、殷王朝の人々はあの世の存在を信じており、死後も生活に困らないように奴隷や金銀財宝、祭祀の道具を共に埋めたと考えられます。
あの世に対する考え方や地下に墳墓を作る形式は、後の中国王朝にも引き継がれていて、殷が後の時代に与えた影響力の強さが窺えます。
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