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奇跡を強調しなかった張陵
このように仙人に会ったとか不老不死の薬を作ったとかウッソくせー伝説に彩られた張陵ですが、意外にも彼は、こういう超人としての自分をPRしませんでした。
素人考えでいくと
「やあ!煩悩まみれの哀れな子羊君!こんにちは仙人だよ。私は仙人なので空も飛べるし不老不死でどんな病気も治せます。さあ、私について来なさい!カマーン!一般ピーポー」
みたいにやった方が信者が増えそうですが、張陵はそうしませんでした。
張陵がやったのは、もっと根源的で、つまり病は気から生じるでした。すなわち悪い事をしたり、体に良くない習慣を繰り返すと神様がその人を見放し、結果、邪気がその人に憑りつき病気になって死に至るというシンプルな考えです。
張陵は疫病に感染した人の所に行くと、これまでに自分が犯した罪を告白させ、同時に次に悪い事をしたら命を取られても構いませんという誓約を書かせます。それから、呪文を書いた護符を焼いて水に混ぜて飲ませました。
恐らく運悪く死んだ人も多かったでしょうが、張陵にはちゃんとした言い訳がありました。「この人は全ての罪を告白しなかった。隠し事をしたから天罰で死んだのだ」という事です。
逆に運よく生き延びた人は、これは護符と神様に対する誓いのお陰だと信じ、以後は張陵が言うように清く正しく嘘をつかない、なんとも窮屈な人生をエンジョイする事になります。
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張陵が蜀で布教した理由
そんな張陵が広い中国大陸で、布教場所に蜀を選んだのは、蜀の人は生来、純粋・純朴で他人を疑わない素直な人が多いからなのだそうです。
これは裏がえせば、蜀の人々は人を疑う事を知らず騙されやすいから布教しやすいという事ですが、三国志でも蜀人は、よそ者の劉焉の支配を受け入れ、次もよそ者の劉備の支配を受け入れています。
最初はブーブー言うけど、よそ者の統治者が多少、蜀人に対して配慮すると「なんだ意外にいい奴じゃん」とコロッと騙されるのが蜀の人々なのかも知れません。
蜀の人には悪いですが、もし張陵が、人間が擦れて疑り深い事で有名な司隷(代表関羽)で布教したら、これだけ短期間で爆発的に五斗米道は広がらなかったかも知れません。張陵の政治的な感覚は鋭かったという事でしょう。
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ボランティア活動で信者と絆を強化
こうして五斗米道の信者が増えると張陵は、積極的に善行を積んで神様が喜ぶようにしようと信者数万人と各地で橋を修理したり、池を掘ったり道を直したりとボランティア事業を展開していきます。
これらの経費は少しも後漢政府を頼らずに自前でやったそうで、後漢政府も何となく薄気味悪い連中だとは思っても、これを弾圧する事はありませんでした。また、五斗米道は当初、漢中ではなく、より成都に近い巴郡辺りで布教していたようで、入信する人々に異民族も多くいたようです。
元々、巴郡は後漢政府の統治がそこまで行き届かない土地なので、張陵は次第に土地に自分の配下を送り込んで祭酒とし、独自の行政区を整備し、これが黄巾の乱後に本格的に独立して宗教王国五斗米道に発展していったのだろうとカワウソは思います。
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三国志ライターkawausoの独り言
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