習禎は劉備の入蜀に従い、各地の県令を経て広漢太守まで昇進した人物です。しかし正史三国志には習禎の記述は乏しく、僅かな事しか分かりません。
ところが習禎が没して100年以上が経過して登場した子孫の習鑿歯が優秀で蜀の知名度を爆上げする1つの書物を編纂しました。今回は子孫の功績で名前が知られた習偵について解説します。
この記事の目次
習禎は荊州襄陽郡の人
習禎は字を文祥といい荊州襄陽郡の人です。
西暦211年劉備が入蜀の軍を起こすときに従い益州に入って雒県、郫県の県令を経て広漢太守に昇進しました。習禎には習忠という子がいて尚書郎にまで昇進したそうです。ところがこれ以上の事は記録が散逸しているので、分からないとなっています。
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習鑿歯が襄陽記で記録
しかし正史に記録が乏しい習禎は裴松之の注釈によって襄陽記の記述が引用されます。
三国志、蜀書楊戯伝が引く襄陽記によると習禎は
風流であり、談論に巧みで名声は龐統に次ぐもので馬良よりも右にあった。子の習忠も名声があり、習忠の子の習隆は歩兵校尉となって秘書の校訂を担当した。
短い文章ですが、襄陽において龐統につぐ名声を獲得し馬良の右、つまり馬良を上回ったと随分と褒めています。これが事実なら習禎の記述が正史から失われたのは、真に惜しい事ですが、どうも怪しいようです。
というのも、襄陽記を書いた習鑿歯は、この習禎の子孫で祖先を顕彰すべくかなり功績を盛っている可能性があるからです。というより当時の系統図は先祖顕彰の動機なしに書かれないので、100%業績は盛られていると見ていいでしょう。
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習鑿歯とは何者?
では、習偵の事績を盛った習鑿歯とは何者なのでしょうか?
習鑿歯は字を彦威と言い荊州襄陽で生まれ、若くして志を持ち博学で文筆に秀でました。その名声を聞いた荊州刺史桓温が招聘し従事(秘書)として近くで使い、その後、江夏相の袁喬が桓温に推薦したので西曹主簿に転任、さらに厚遇されます。
習鑿歯は桓温に任された仕事はすべて期待以上でこなし戦争にも従軍。要職を歴任して実績を積み重ね議論にも長けていたそうです。
習鑿歯が歴史書を書き始めたのは、この東晋の実力者桓温が帝位簒奪の野望を抱いた時「漢晋春秋」という後漢の光武帝から西晋の慇帝までの歴史書を上申したのが最初です。結局桓温は帝位を諦め、習鑿歯も脚を悪くして荊州襄陽に隠居し「襄陽記」を執筆しました。
つまり習鑿歯が「漢晋春秋」を書いたのは桓温の簒奪を諫めるのが目的だったわけです。
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蜀漢正統論を主張した習鑿歯
全然、習偵と関係ない話で恐縮ですが、ここから少し関係性が出てきます。こちらの習鑿歯、自分が編纂した漢晋春秋において
「晋は魏の禅譲を受けて成立したのではない!司馬炎が蜀漢を滅ぼした時に、初めて後漢を倒して成立したのである」と主張したのです。
もう少し具体的に言うと習鑿歯は
①曹丕が後漢献帝に禅譲させて建国した曹魏王朝
②曹魏五代目皇帝曹奐が司馬炎に禅譲して建国した晋王朝
このような後漢→曹魏→西晋という三段構えの歴史観から曹魏をすっ飛ばし
①司馬炎が後漢を継ぐ蜀漢を滅ぼし初めて後漢が滅亡し易姓革命が成立した。
と、蜀漢に後漢の後継王朝の地位を認め、曹魏の建国を認めない歴史観を打ち出します。これは当時誕生した蜀漢正統論と呼ばれる考えを代弁していました。だからこそ漢晋春秋は「漢魏晋春秋」にはなっていないのです。
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