この記事の目次
仇敵、曹操と結んで袁尚を追い払う袁譚だが…
その兄弟喧嘩を見越して攻撃してきた曹操、袁譚は救援を袁尚に願うも断られ、完全に二人の仲は決裂。そして曹操が撤退すると真の敵はお前だ!と言わんばかりに袁尚と戦った袁譚ですが、敗北。
王修に兄弟喧嘩の愚かさを説かれるもどうしても負けたくない袁譚、的確なアドバイスをすることに定評のある郭図の薦めから曹操に降伏。
その後は曹操が打ち破った袁尚軍を急襲して軍部拡大……していた所を曹操に批難され、盟約は解消。袁譚は結局曹操に討伐され、三兄弟の中では最も先に倒れることとなったのでした。
こちらもCHECK
-
袁紹の評価が残念な6つの理由
続きを見る
袁譚に宗家を継がせようとした袁紹の意図
さて「そもそも袁紹から嫌われていた」「袁紹はかわいい袁尚を後継者にしたかった」「厄介払いされた」など散々な言われような袁譚ですが、彼も彼で実は「後継者」の位置には既に立たされていました。
まず袁紹ですが、この袁紹の父親は袁成とも袁逢とも言われています。袁成だった場合、袁紹は袁家の長男の息子でしたが父親が早くに亡くなり、袁家を継いだのは袁逢となり、袁逢だった場合は母親の身分が低かったので養子に出された(そして義父早くに病没)となります。
つまり袁紹は、そもそも袁家を継げなかったのです。そして後継者となったのは袁逢の長子である袁基、つまり袁譚が養子に出された先です。
なのでもしかしたら袁紹としては「自分の家を取り戻したかった」「できなかったから息子に託した」……という可能性もあると思うのですが……そうすると袁譚が担ぎ出されて袁紹の後継者を名乗り始めた、その結果袁紹の家自体が滅んだ、となるので、余計袁紹涙目だな、と思った筆者でした。
こちらもCHECK
-
袁紹が死んでも息子たちが協力していれば曹操を倒せたの?
続きを見る
三国志ライター センのひとりごと
最後に袁譚の支援者に付いて。有名な所では、郭図、辛評が袁譚の支持者でした。対して袁尚の支持者は、まあ捏造しただのなんだの言われていますが、審配や沮授(死んでる)たちです。そして審配や沮授たちは、冀州出身者たち。
つまり地元の支持は、袁尚側にあった訳ですね。そう考えると、そもそも袁譚の支持は余りなかった……まあ養子に出されてるしな……と何とも苦々しいことに気付いた筆者でした。
どぼん。
参考文献:魏書袁紹伝 後漢書袁紹伝 魏書
こちらもCHECK
-
曹操、宿敵を破る!曹操が「官渡の戦い」で勝利できた理由とは?
続きを見る