河北平定
8月には青州北海国にある淳于まで進んで海賊を討ち、徐州の郡県を整理しています。これで青州方面も曹操の支配下となりました。
207年の2月に曹操は一度鄴城へ戻りますが、すぐさま幽州へ進軍し、5月には右北平郡の無終へと至り、6月に袁煕と袁尚を攻撃。8月には白狼山でこれらを打ち破ります。
袁煕と袁尚は遼東まで逃げますが、公孫康が二人を捕らえて殺しました。残った幽州も手中に収めた曹操は河北を完全に平定することができたのです。
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なぜ7年もの期間が必要だったのか?
まず官渡の戦いの時点で曹操軍に兵糧が不足している状態でした。袁紹に追撃をしかけた際も北部の糧食が少ないことで断念しています。
また、冀州は黄巾党の反乱からずっと戦火にさらされていたので、田畑は荒れていて十分な糧食を確保するには時間が必要だったはずです。そのため、袁譚から救援要請を受けた際も糧道を確保し、長期間の戦闘に耐えられるようにしたと考えられます。
もう一つは劉表の存在です。一度は荀彧に諌められたものの曹操は袁譚、袁尚を蹴散らすと南へ進軍しています。
これは官渡の戦いで汝南を荒らした劉備が亡命したことで、より背後に注意しなければならなくなったということです。実際に劉備は曹操が遼西の柳城へ進軍すると劉表に許都急襲を進言しています。
曹操陣営では郭嘉だけが劉表は劉備を信じられないと言ったために遠征は実行されましたが、備えはしていたと考えられます。
こうした兵站整備や背後への備え、兵の休養、さらに海賊や烏桓の討伐などで各地を転戦したために、河北の統一には7年という時間がかかってしまったのです。
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三国志ライターTKのひとりごと
中原一帯を収めた曹操は208年の正月に玄武池を作り水軍の調練を開始し、7月には劉表討伐のために南進しています。袁紹が公孫瓚を滅ぼした翌年に南進して官渡で敗北したにも関わらず、曹操もまた同じ轍を踏み赤壁で敗北を喫しました。
ここからも曹操がどれだけ劉備を煩わしく思っていたのかが想像できます。
もし曹操が徐州で劉備を討っていればもう少し早くに河北は統一できていたはずですし、官渡の戦いで袁紹を捕らえて全面降伏をさせられていれば、曹操の河北統一は最短で成し遂げられていたでしょう。
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