周瑜は呉(222年~280年)の将軍です。この周瑜の戦歴で有名なのは建安13年(208年)の「赤壁の戦い」です。ところが、彼の戦歴は赤壁の戦い以外知られていません。
そこで今回は赤壁の戦い以外の周瑜の戦歴を解説していこうと思います。
※記事中の歴史上の人物のセリフは、現代の人に分かりやすく翻訳しています。
劉繇討伐
興平2年(195年)に孫策は揚州の長官である劉繇の討伐に向かいました。劉繇は黄巾賊の残党に殺害された劉岱の弟です。劉繇は朝廷から正式に任命された揚州の長官でしたが、当時の揚州は袁術が勢力を拡大しており劉繇を敵視した袁術は孫策に討伐命令を出します。
孫策も当時は独立勢力ではなく、袁術の傭兵の1人です。勢力がまだ弱かった孫策は劉繇討伐に当たり周瑜の力を借ります。周瑜の一族は揚州だけではなく中央政界でも名が知れ渡っていたのでパトロンとしては絶対に必要な存在でした。
周瑜も孫策と同じ熹平4年(175年)の生まれなので意気投合しました。日本と違い中国では「同年」という概念は非常に重視されます。周瑜を仲間に引き入れた孫策は「私の大臣を得たので事業の目途がついた」と喜び、周瑜も期待に応えて劉繇配下の笮融と薛礼を破りました。
こうして劉繇は孫策と周瑜に打ち破られて揚州から追われました。
曹操からの人質要求を拒否
しかし、建安5年(200年)に孫策は襲撃されて傷がもとでこの世を去ります。
孫策は後継者を弟の孫権に決めて、もし国内で何か困ったことがあったら政治は張昭、軍事が周瑜に尋ねることを遺言しました。さて、孫策が亡くなった2年後の建安7年(202年)に曹操は、孫権に子供を人質に差し出すことを要求します。同年に袁紹が死んで北方の勢力が弱まったことから、曹操は南方に着手し始めたのです。
曹操の要求に張昭は迷って決断が下せません。やむを得ないので、孫権は母と周瑜に尋ねました。すると周瑜は次のような提案をします。
「孫権様は、孫堅殿と孫策殿からせっかく土地や兵を受け継いだのです。何の差し障りがあって人質を出すのですか?もし曹操の要求を呑んだら、必ず彼の言うことを聞かなければいけませんし、手に入るものも印鑑と奴隷や馬が少しだけです。ここはゆっくりと静観して、もし曹操が正しい人物だったと分かったら降伏しても遅くないでしょう」
近くで聞いていた孫権の母は周瑜と同意見だったので、孫権も納得して曹操に人質を送ることはありませんでした。その後、孫権と周瑜の予想を裏切って、曹操は仕える人物に値しないと判断。建安13年(208年)の赤壁の戦いで曹操を打ち破ることになるのです。
曹仁との戦い
赤壁で曹操を打ち破った周瑜は曹操を追撃しますが、曹操は逃げてしまいます。周瑜の前に立ちはだかるのは、曹操の従弟の曹仁。周瑜は最初に甘寧を派遣して曹仁を破りますが、曹仁は負けたフリをして甘寧を包囲しました。
甘寧からのSOS信号を受けた周瑜は、すぐに駆け付けて救出しました。間もなく、曹仁と周瑜は真正面からの戦闘になりました。だが、この時に周瑜は脇腹に矢が命中して呉軍は撤退となります。
周瑜が死んだと思った曹仁は追撃して呉の陣を包囲しました。しかし、こんなピンチだからこそチャンスに変えるべき!周瑜は無理をして立ち上がると、曹仁の目の前に出てやります。
「周瑜は死んだのじゃなかったのか?」とびっくりした曹仁は、そのまま退散しました。
こうして周瑜の大勝利に終わります。
三国志ライター 晃の独り言
華々しい戦歴を持っている周瑜でしたが、残念ながら矢傷と過労が原因なのか不明ですが、建安15年(210年)にはこの世を去りました。36歳の若さでした。
今回、周瑜や龐統のように矢に命中して負傷したり亡くなった人物の伝記(翻訳)を読んでいると「流れ矢」という言葉に注目しました。
「流れ矢」は正史『三国志』の原文では「流矢」と表現されています。
「それがどうしたの?」と言いたくなるかもしれませんが、実は「流れ矢」と「流矢」は全く意味が違います。流れ矢は、目標をそれて見当違いのところを単独で跳んでくる矢。当たった人は可哀そう(涙)
流矢は、川の流れのようにいっぱい飛んでくる矢。テレビドラマに出るのは、ほぼ「流矢」です。翻訳の中には全てとは言わないのですけど、言葉の意味を間違えたものも存在します。
でも、周瑜や龐統も大将なのに、なんで流矢がいっぱい飛ぶ所に出たのでしょうか?
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