呂布は後漢(25年~220年)の末期の群雄の1人です。弓術と馬術に優れていたことから、「飛将」と呼ばれていました。
定まった領土を持たずに群雄の間を転々としたので、群雄の間での評判は芳しくありません。そのため建安3年(198年)に曹操と劉備の連合軍に敗れて捕縛されて死刑になりました。
ところで、呂布の人柄はどんなものでしょうか。今回は呂布の人柄について解説します。
呂布の人柄その1:ビビり 上司の女に手を出す
呂布はもともと、并州の丁原の配下でした。
しかし、董卓からスカウトを受けたので丁原の首と軍隊を土産に董卓につきました。
また、董卓とは親子の契りも結びました。
ところが思った以上に董卓はキレやすい体質の人間でした。何が原因か不明ですが、呂布に向けて戟をぶん投げたことがあったようです。
腹いせのつもりなのか、この後で董卓の女に手を出しています。
しかも、これでビクビクしていたのです。ただのビビりですね・・・・・・
呂布の人柄その2:5秒で説得される
そんなビビっている呂布に目を付けたのが、王允です。王允は董卓暗殺を呂布に持ちかけました。
しかし呂布は渋っていました。
「私は董卓様と親子の契りを結んでいますので・・・・・・」
ところが王允も負けていません。
「あなたの姓は『呂』です。彼の姓は『董』です。何を遠慮する必要がありますか?」
「それもそうですね」
このように5秒の会話で説得された呂布は、あっさりと董卓を殺害しました。
思考回路がヤバイくらい単純すぎます。
ちなみに、この話があまりにも薄っぺらいためなのか、『三国志演義』では美女の貂蝉を登場させて話に面白みを持たせています。
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呂布の人柄その3:厚顔無恥 劉備激おこぷんぷん丸事件
董卓を殺した後に呂布は袁術と袁紹の所に行きます。なぜなら、董卓は2人の親族を殺していました。董卓を殺した呂布は2人にとっては恩人です。
ところが呂布は2人の所で尊大に振る舞いました。なぜなら、袁紹も袁術も朝廷から正式に任命されている太守ではありません。勝手に自分たちで名乗っていたのです。
その点、呂布は正式任命の将軍です。要するに正社員とアルバイトの差と一緒と考えていただければ結構です。結局呂布は、袁術からは追い出され、袁紹からは刺客を放たれる始末です。
どうしようもない男です。仕方なく、呂布は劉備のもとまで落ち延びました。呂布はお礼に劉備を自分のテントまで案内しますが、この時に以下の行動に出ます。
(1)劉備と兄弟関係を結ぶも、なぜか劉備は「弟」。
(2)劉備を自分の妻のベッドに座らせる。
(3)自分の妻に劉備と挨拶させて、酌もさせる。
(1)については呂布の年齢が不明なので調べようがないですけど、恩人に対して弟はないと思います。
(2)については普通は椅子ぐらい出しますよね。
(3)について現代の日本人の感覚では分からないので解説します。
実は昔の中国では自分の妻を他の男に会わせるのは非常に失礼なことでした。要するに、自分の妻を素っ裸にして他の男に会わせると思っていただければ結構です。
「大袈裟だな!」と思うかもしれませんが本当の話です。
それぐらい昔は厳格だったのです。ちなみに曹丕と夏侯惇にも同様の話が残っています。劉備は上記の行動と呂布の言葉に一貫性が無いので内心では相当腹を立てていたようです。
三国志ライター 晃の独り言
以上が呂布の人柄でした。呂布の人柄はマイナス面が多く見られるものばかりです。
一介の武将としては、やっていけるレベルでしょうが総大将となるとやっていけないレベルの人物です。
実際に人柄がわざわいして、最期はあっけなく殺されています。
※参考文献
・高島俊夫『三国志 「人物縦横断」』(初出1994年 のち『三国志 きらめく群像』ちくま学芸文庫 2000年に改題)
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