「呂布だ~!呂布が来た!」と「真・三国無双」のモブキャラのものまねを大学時代は、友人と一緒にやっていた筆者です。
「どんな大学ライフだよ?」と首をひねりたくなる読者の皆様もいるでしょうが、それだけ筆者はヒマだったということでした。
さて、今回は後漢(25年~220年)末期に登場して各地の群雄と戦った呂布の最期について解説します。
※記事中のセリフは現代の人に分かりやすく翻訳しています
呂布の降伏
建安3年(198年)に呂布は袁術と手を結んで、曹操に叛旗を翻しました。呂布は、まず部下の高順を派遣して小沛に駐屯している劉備を攻撃して打ち破ります。
曹操はすぐに夏侯惇を劉備の援軍に差し向けますが返り討ちにされました。小説『三国志演義』で夏侯惇はこの時に、高順配下の曹性に弓矢で目を打ち抜かれて片目が不自由になってしまいます。
しかし、それは『三国志演義』の虚構であり、史実の夏侯惇が目を負傷したのは4年前の興平元年(194年)の濮陽の戦いです。打ち抜いたのも曹性ではありません。おそらく、流矢に命中したのでしょう。
話がそれたので戻しますが、最初はイケイケムードの呂布でしたが、曹操が自ら出陣するとすぐに敗走してしまいます。下邳城を包囲された呂布は、曹操から袁術につくか自分につくかの二択を迫られました。考えている時間は無いので呂布は曹操に降伏することにしますが、部下の陳宮がそれを阻止します。
それどころか呂布軍は滅茶苦茶でした。呂布は自分に1番忠実である高順を信用せず、軍師の陳宮は何かあったら曹操に降伏するな、と横槍を入れる。また、呂布の妻は「陳宮は信用出来ない」と言う始末。
こんなことが続くので、とうとう呂布の親戚である魏続と部下の宋憲・侯成が陳宮を取り押さえて曹操に降伏。陳宮を失った呂布は観念して曹操に降伏します。
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呂布の死因 その1 劉備が原因
正史『三国志』によると呂布は劉備により処刑されたことになっています。これは非常に有名な話であり、小説『三国志演義』でも採用されています。降伏した呂布は縛られますが縄がきつかったらしく、「縄がきついので緩めてください」と英雄としてみっともない弱音を吐きます。
曹操は「虎(呂布)を縛るのだから当たり前でしょう」と言いました。すると呂布は「曹操殿が恐れているのは私でしょう。あなたと私がタッグを組めば最強です!どうですか?」と交渉を持ち掛けてきました。この時、曹操は催眠術にかかったように心が揺れ動きました。呂布はメンタリストですか?
曹操が許そうとしたその時、劉備が飛び出して、「この呂布が、丁原と董卓を殺したのを忘れましたか?」と言いました。思い出した曹操は、「そうでした」と頷きます。一方、呂布は劉備に向かって「劉備こそ一番信用出来ないのだぞ!」と叫びますが、もう手遅れでした。呂布は絞首刑にされてしまいました。
呂布の死因 その2 王必が原因
この話は正史『三国志』に注を付けた裴松之が史料として採用した『献帝春秋』という史料に掲載されています。まず、王必とはだれでしょうか?
彼は曹操が挙兵した当初から付き従った最古参の部下の1人であり、当時は曹操の秘書のような存在です。
『献帝春秋』によると呂布が縄を緩めるように頼んだ相手は曹操で間違いないのですが、命乞いをした相手は劉備にされています。この時の曹操の態度は非常に冷めており、「なんで自分じゃなくて劉備に命乞いをするんだ?」と言っています。
ただし曹操が呂布を許してやろうと思ったのは、正史『三国志』と変わっていませんでした。その時に口を出したのが劉備ではなく曹操の秘書をしていた王必です。
「呂布は手強い奴です。彼の軍勢が外にいるのですから、縄を緩めてはいけません」と王必は言いました。それを聞いた曹操は呂布を処刑する決意を固めます。こうして呂布は刑場の露に消えました。
三国志ライター 晃の独り言 どっちが正しいの?
以上が呂布の死因に関する2つの説です。陳寿は劉備を採用しており、王必を斬り捨てております。裴松之もこの件に関しては特に言及していません。これは裴松之が『献帝春秋』という書物を嫌っているからです。耳にたこができるほど何度も解説したことありますが、『献帝春秋』は裴松之が「史籍の罪人」という評価をしています。
裴松之はおそらく、「また作り話か・・・・・・」と思って相手にしなかったのでしょう。しかし筆者は、『献帝春秋』の方がリアルに感じる。曹操ではなく劉備に命乞いをするシーンは命の危機が迫った人間がやりそうなことだし、曹操の側近である王必が呂布の殺害を提案する方が納得がいきます。
さて、読者の皆さんは正史と『献帝春秋』どちらをとりますか?
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