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[衝撃]孔明、実は健康に自信?その大誤算とは?

2023年7月4日


 

7-4_病気がちな孔明

 

三国志のスーパースター、諸葛亮孔明(しょかつ・りょう・こうめい)。演義のイメージだと病弱で、仕事ばかりしていて、天文で人の寿命もすぐ分ってしまう、一種の運命論者に見えてしまいますが、現実はどうだったのでしょうか?

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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孔明は病弱では無かったかも知れない

孔明

三国志演義では、色白で細く、いつも車に乗って移動しているので、病弱なイメージの孔明ですが、劉備(りゅうび)に見出される前は、隆中で10年、農業に汗を流していたという事で知られています。おまけに身長は184センチもあったようですから、実際の孔明は、非常に健康的で色黒でデカイ事になります。

 

そう考えると孔明は武将程ではないにしても、色白な文官ではなく、かなり溌剌とした人だったかも知れません。大体にして、傭兵隊長でアクティブ体育会系の劉備が色白の青びょうたんを重く使うとも思えないので、事実の孔明は、かなりの健康体だったのではないかと思うのです。

 

劉備「ファイトーーー!」
孔明「いっぱあーつ!!」

 

もしかして二人は、ザ、蜀ビタンDな感じだったのでは・・

 

 

権力にも執着しちゃうぜ、独裁権力ドーン

孔明

 

孔明と言えば、一歩引いたイメージなのは演義の影響です。実際の孔明は、劉備が死去して劉禅(りゅうぜん)が即位すると、すぐさまに丞相府を開く事を許されています。

 

許されたというより、劉備亡きあとの蜀を独裁的に引っ張る為に丞相の自分に権限が集中するようにしたのです。

 

蜀には、劉備が存在する間は、許靖(きょせい)という人が三公の一つ、司徒に任命されていますが、許靖が劉備と相前後して亡くなると再び、三公が置かれた様子はありません。丞相と三公の力関係は微妙ですが、大体、名目上は三公が上です。

 

そこで丞相の孔明は、自分の裁断に横やりを入れられるのを嫌がり、三公を置かなかったのでしょう。実は、上に三公を置かずに丞相が全てを決済するのは、献帝(けんてい)を擁立した曹操(そうそう)が行ったのと同じ手法です。ここにも、バリバリ権力人間の孔明の片鱗が見えてきます。

 

 

ザ!諸葛学校、有能なヤツは丞相府に入れちゃうぜ!

三国志大学

 

そんな孔明、自分の影響力を強化しようと、蜀でめぼしい有能な人材は、すべて丞相府に繰りこんでいます。

 

蔣琬(しょうえん)、馬(ばさい)、姚伷(とうちゅう)、楊顒(ようぎょう)王連(おうれん)、向朗(しょうろう)、楊義(ようぎ)、張裔(ちょうえい)魏延(ぎえん)費禕(ひい)宗預(そうよ)、胡済(こさい)、董厥(とうけつ)、楊戯(ようぎ)、姜維(きょうい)、霍弋(かくよく)、

 

等など、いずれも、後の蜀の中心になった人々ばかり、彼等は、孔明の子飼いの臣として(魏延除く)丞相府から中央の官になったり、県令や郡長官になったりしたのでしょう。

 

 

これぞ、吉田学校ならぬ、諸葛学校!孔明、自身の権力基盤を固める意欲が満々です。

 

 

 

本当はもう少し長生きするつもりだった孔明

孔明 コペルニクス

 

三国志演義では、天文を見る事で、人の寿命を察する事の出来る孔明ですが史実の孔明は無論、そんな事は出来ません。10年間、農業で鍛え、また丞相の激務に耐えてきた事から、演義のイメージとは逆に、健康には自信があったのではないか?とさえ思えます。

 

 

7-5_歳をとっても元気な孔明

 

特に後継者である姜維を得た時には、これを喜びじっくり育てようと倉曹掾(そうそうえん)(丞相府の属官:食糧担当)に任命して仕事を見ている所からも自分は長生きするのだという感覚が見えます。

 

姜維が魏から蜀に投降してきたのは、西暦228年、孔明が没するのは、234年、間には6年の歳月しかありません。その割には、かなりじっくりとした育て方で、北伐の途中に、姜維は中監軍・平西将軍に昇進していますが、平西将軍は雑号でそこまで高い位ではありません。

 

孔明としては、やはり登用から10年位は見て、238年前後に、鎮西将軍に任命して、征西将軍の魏延と2トップで軍事の大方を任す、、楊義と違い、武官で剛腹な姜維ならば魏延とも五分でやれる・・そういう腹つもりだったのでは、、と思えるのです。

 

 

最後の五丈原の戦いも持久戦覚悟だった・・

孔明と司馬懿

 

孔明が自分がそんなに早く死ぬ筈はないと考えていた最たる理由は、五丈原における布陣です。ここで孔明は屯田を行って食糧を自給し、呉と両面作戦を計画しながら、長期戦の構えを取っています。もし、健康面に不安があれば、自分が死んだら駄目になる持久戦など採用しなかったのではないでしょうか?

 

対陣中の急激な健康悪化は、実は孔明予想外の事で、呉軍の合肥での敗北も重なり、かなり急速に健康が悪化した本当は、そういう事だったのではと思います。

 

 

三国志ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

私達はどうしても、三国志演義の孔明像に引きずられ、色白、虚弱体質、天文で寿命を知る運命論者だと先入観で見ます。でも、孔明が虚弱だったという記述はないですし、逆に細かい仕事まで自分でやるバリバリのモーレツ社員だった事は記述にあります。

 

もしかして孔明は「80歳までは仕事して、あとは隠居して百歳を目指す」位の事は考えて仕事をしていたのかも・・

 

つまり現実に近い孔明像は、「わしもそろそろ引退して後進に道を譲ろうかな?がっはっは」とか言いながら結局、死ぬまで、社長のポストにいるようなワンマン俺様社長だったのです。

 

孔明、ガッハッハモーレツ親父説、これを信じるか信じないかはあなた次第です!

 

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kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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