関索と言えば、大体「関羽の三男」として出てくる息子であり、イケメンであり、色々と優秀であったり、かと言えば何か脳筋ぽかったり、実は存在しなかったり。そんな関索が出てくるのが花関索伝、というか関索が生まれたのがこの花関索伝の由来です。
今回はこの花関索伝について、あらすじをざっくりと見ていきたいと思います。三国志や三国志演義とはまた違う、英雄たち衝撃の結末も見所です!
この記事の目次
花関索伝が発見された経緯
まずちょっと最初に、花関索伝が発見された経緯もざっくりと。花関索伝が発見されたのは1967年のこと。それは上海市近郊の農地の整理中に偶然発見されました。それは明代の墳墓の随葬品であり、大変貴重なものではあったものの当時は文化大革命の真っ最中。これは個人的に保管されて、1972年に古書買い受けから世間に広まることとなり、一躍有名となりました。この発見されたものの中に
「新編全相説唱足本花関索出身伝 前集」
「新編全相説唱足本花関索認父伝 後集」
「新編足本花関索下西川伝 続集」
「新編全相説唱足本花関索貶雲南伝 別集」
という集があり、一般的にはこれらが「花関索」として呼ばれることとなります。ではそんな花関索のあらすじをざっくりと見ていきましょう。
「花関索」世に誕生す!
さあ時代は桃園の誓いがあった頃、劉備を長兄として義兄弟の誓いをした関羽と張飛は、兄のためにも自分たちの弱みと憂いは少ない方が良いと、お互いの妻子を殺すことにします。そういうことすると後から蜀が人手不足になるぞ!
しかし張飛は身重だった義姉を殺すことが出来ず、見逃すことに……こうして後に、母一人子一人となって、父も知らぬままに生まれたのが関索でした。しかし7歳になった関索はお祭りの日に迷子になり、母親と離れ離れになってしまいます。
そんな関索を助けて引き取ってくれたのが「索さん」で、お金持ちの彼に大事に育てられた関索はその後「花岳先生」に武芸を習い、18歳で実の父親が関索立派な若者となった索童は18歳の時、実の父親が「関羽」であると知り、三人から一文字ず文字を貰って「花関索」と名乗り、関羽に会いに行くことになるのでした。
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父親である関羽に会おうと旅を続ける関索。旅の最中に鮑家の娘の噂を聞き、その娘こと鮑三娘に戦いを挑みます。鮑三娘は美女でありながら武芸の達人でしたが、50合も打ち合わぬうちに関索に馬から突き落とされて敗北。
関索の強さに感動した彼女は関索と結婚することになった関索は、その後、襲ってきた彼女の元カレを返り討ちにしたり、旅の最中に出会った王桃、王悦姉妹と戦って勝利してお嫁さんにしたりしつつ、旅を続けていきます。
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父親(関羽)との再会と関索の気になるこれからの立ち位置
色々あって関羽のとこから孫権の部下が赤兎馬を盗んで逃走、関索に「アイムファーザー!」と名乗るけれどこれは見破られ、合流した張飛と一緒にこれを打ち倒し、関羽の危機に駆けつけて救い出して親子は無事に再会します。そしてここから入蜀兼関索の活躍のターンとなるのですが……ここで関索の立ち位置が大体お分かりになると思います。
関羽と黄忠の戦いの前に出てきた武将を切り殺す。(関羽の立ち位置)
ホウ統が亡くなったので援軍要請の使者に。(関平の立ち位置)
諸葛亮、張飛と趙雲と関策を援軍として率いて向かう。(追加立ち位置)
厳顔と張飛の戦いの際に、別働隊として軍を率いて厳顔を破る。(別働隊の立ち位置)
諸葛亮の策で張任を張飛と包囲して破る。(厳顔の立ち位置)
張飛、張コウを倒すために関索と相談。(雷銅の立ち位置)
……と、三国志演義では別の人物の立ち位置が関索になって活躍する、というパターンが定番化します。とは言えここまでは余り印象には残らず、ここからが関索のオリジナル大活躍のターン!
曹操氏のコメントより「やっぱ虎の子は虎ってやつだわ」
劉備軍が大活躍していることにお怒りの曹操、出陣。これに劉備は劉封を向かわせますが、曹操の挑発に乗せられてピンチに陥ります。しかし颯爽と出てきた(出てきた)関索、これをあっという間に倒してしまい、驚いた曹操は徐晃を出陣させることに。
劉邦は呆気なく徐晃に敗れて逃走、しかしこれを庇って戦う関索は徐晃と互角の戦いを繰り広げました。驚いた曹操は「あれは誰だ」と聞くと「関羽の子、関索です」と答えが。「なるほど、虎の子は虎であったか」と感嘆し、最終的に曹操は関索に降伏。劉備は見事漢中を手に入れ皇帝となり、関羽は荊州に家族と共に移り住むのですが……訪れた劉封と関索が喧嘩したことで劉備が怒り、関索と劉封は流罪とされてしまいます。
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桃園の誓いの終焉と、関索の復帰(主人公補正)
因みに花関索伝の劉封は明確な悪役なので、孫権が呂蒙と陸遜を出陣させてピンチになった関羽は劉備に援軍を要請した際に、この援軍要請を何度も途中で握り潰して邪魔をするキャラクターなのでそれ相応以上の報いを受けます。
その後、荊州は陥落、逃げ延びた周倉と関羽でしたが、食糧不足に陥り身動きがとれず……そこで周倉、関羽に自らの肉を切り裂いて食べさせる忠臣っぷりを発揮!劉安で見た
これが死因となり周倉死亡、結局は関羽もこの後死亡、かと思いきや主の武具は誰にも渡さないとばかりに赤兎馬は青龍偃月刀を咥えて入水自殺!関興に受け継がれない父上の武器
関羽の死に怒った劉備、釘を打った鼓の中に入れられ坂から落とされ処刑される劉封!処刑方法が残酷すぎる。張飛も部下に裏切られて死亡。良かったここはそのまんまだ
関索はその間病気中。劉備は関索を姜維に呼ばせに行くが、関索は病によって先をも知れぬ身……ご安心下さい、突然現れた花岳先生が治してくれました。
その後、全軍を率いて呉に出陣した関索、途中で兄・関平が戦死したりするものの冥界から現れた関羽の助言で呂蒙を破り、裏切り者の糜竺、糜芳兄弟を殺して陸遜も殺害、関羽と張飛の霊を祀って弔います。
英雄の退場、その衝撃の数々
さてここまでにもセルフ劉安周倉や赤兎馬渾身の入水自殺、劉封のとんでもねぇ処刑など衝撃の数々な退場シーンを見せてくれた花関策伝ですが、終盤ということでここからもやはり退場シーンの連続となります。その中でも更に衝撃なのが劉備、諸葛亮、花関索の退場。
劉備、関羽と張飛を失った悲しみから病死。ここは三国志演義を思い起こす悲しみのシーンですね。劉封をあれだけ残酷に殺しておいてここで繊細な表現をされても……。諸葛亮、仕えるべき主君である劉備を失ったことにより失意、臥龍山に入って仙人修行開始。伏龍またも臥せる……もうそれただの図体のデカい蛇では?
というか劉禅様はどうなったんですか。
関羽や張飛に加えて劉備や諸葛亮といった有数の仲間たちが失われ、失意の中で病死。なんでや一回病気から復活したじゃないか!
仲間がいなくなると寂しくて死んじゃうウサギだったのかもしれません。
こうして花関索伝、ざっくりとですが終幕となります。
色々とツッコミどころが多い花関索伝ですが、これは成立までに多くの民間伝承を取り込み過ぎ、色々と大きく齟齬が生まれてしまったからだ、とも言われています。とはいえそんな荒唐無稽さもまた花関索伝の面白さの一つ、ぜひ花関索、そして他多数の武将たちの生き様を、三国志や三国志演義と比べて見てみて下さいね!
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三国志ライター センのひとりごと
因みに関索の生まれた経緯の一つに「星座の擬人化」というものがあります。この星座に索の文字が入っていたのが、いずれかの経緯で「関索」を名乗り、そして「「関」って言うなら「関羽」でしょ!」と関索が生まれた、というものです。これもまた面白いお話ですね。
個人的な印象ですが花関索伝は中々にぶっ飛んでいて面白いと思いますので、話の種の一つとして花関索伝、この機会にどうですか?どぼーん。
参考:「花関索伝」
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