三国志が成立する前の時代には各地で色々な英雄や名将・知将がいました。英雄達は軍事力や政治力を尽くして、勢力を拡大ししのぎを削ってきました。
また名将・知将は知力や武力を君主に尽くして、君主を支えてきます。孫堅・孫策・孫権の孫呉三代に仕えた黄蓋。彼もまた孫呉三代に忠義と武力を尽くして、仕えてきた人物ですが、彼がいなければ三国時代が訪れなかったかもしれないのです。
黄蓋が三国時代を作り出すきっかけだった!?
黄蓋は孫堅が挙兵した時に配下に加わり、その後孫策・孫権へ忠節を尽くして孫家に仕え続けていきます。黄蓋は董卓討伐戦で活躍し、孫策が君主になった時には江東平定戦で功績を挙げます。
黄蓋は孫策死後、孫権が跡を継ぐと江東各地に割拠していた異民族の討伐で活躍していきます。孫家三代に忠節を尽くしてきた黄蓋ですが、三国志の歴史ではどのような役割を担っていたのでしょうか。
それは黄蓋がいた事で三国時代を作り出すきっかけを残したことだと言えるでしょう。
なぜ三国時代を作り出すきっかけを黄蓋が作り出したのでしょうか。
赤壁の戦いの勝利の原因を作り出したから
上記で三国時代を作り出したきっかけは黄蓋だと述べましたが、どうしてなのでしょうか。
それは黄蓋が赤壁の戦いで、曹操軍に勝利する原因を作り出したからです。黄蓋は周瑜の部下として出陣し、赤壁で曹操軍と対峙することになります。
黄蓋は曹操軍に勝利するため、ある作戦を閃き孫呉軍の総司令官・周瑜の元へ「周瑜殿。このまま曹操軍と対峙していれば、兵数の少ない我らが不利になっていくばかりです。そこで火計を用いて曹操軍に攻撃を仕掛ければ、簡単に曹操軍の船団を打ち破ることが出来るでしょう。
その理由としては曹操軍の船団は隙間がないからです。火をつければ船団を燃やしつくことができるはずです。」と献策。
周瑜は黄蓋の献策を採用し、曹操軍へ火計を仕掛けます。曹操軍は黄蓋の降伏船団からの火計による攻撃を受けた事で、船団のほとんどが燃えてしまうのでした。曹操は黄蓋の火計による攻撃を受けて、軍勢を赤壁の地から撤退していくことになります。
こうして孫呉軍は黄蓋の献策によって、曹操軍を退けることに成功するのでした。しかしどうして赤壁の戦いで黄蓋が周瑜に献策した事で、勝利したきっかけを作り出したことが、三国時代を作り出す事になるのでしょうか。
赤壁の戦いが天下統一の分かれ目だった!?
赤壁の戦いは黄蓋の献策が、曹操軍を退けるきっかけとなり、孫呉軍の大勝利につながりますが、三国時代を作り出したきっかけとなぜ結びつくのでしょうか。
それは赤壁の戦いが天下を統一できるかどうかの分岐点だったからです。
曹操は赤壁の戦いで孫呉を討伐し、江東を平定する事で一気に天下統一を成し遂げようと考えていました。
もし曹操が赤壁で勝利し江東平定に成功すれば、中華に残っている大きな勢力は益州の劉璋と西涼の軍閥だけでした。彼らは孫権に比べれば小さい勢力で、曹操に単独で抵抗するのは難しかったと思います。
また益州と西涼の軍閥が連合した場合、何度か曹操軍を撃退しても、いずれは曹操に敗北していた可能性が高いと思われます。
そのため赤壁の戦いで曹操が孫権軍に勝利できれば、かなり高い確率で、天下統一ができたと思われます。もちろん曹操が天下統一すれば、三国志の時代が訪れることはありません。これらを考えると黄蓋が赤壁の戦いで勝利のきっかけを作り出したことが、三国時代を作り出した要因の一つと考える事ができるのではないでしょうか。
三国志ライター黒田レンの独り言
今回紹介したように黄蓋の献策で赤壁の戦いに勝利できたことも三国時代を形成することが出来た一つの要因だと言えます。しかし他にも三国時代を作り出すことが出来た要因はいっぱいあります。
例えば、周瑜の盟友・魯粛が孫権に提案した「天下三分の計」や赤壁後の劉備軍の行動など、数えれば三国時代を作り出すことになった要因がいっぱいあります。この三国時代を作り出した要因の一つに今回紹介した黄蓋が赤壁の戦いで献策した事も含むことができるのではないでしょうか。
・参考文献 正史三国志呉書など
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