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曹操が、優秀な部下達の中でも、とりわけ郭嘉を大切にしていた理由とは?
たとえば、想像してみてください。あなたが運動部のキャプテンで、県大会に向けての練習スケジュールを組んでいるとしましょう。
トーナメントでは、強豪であるA校とB校の、二つを倒さないといけない。この時、どうしても、「A校への対策の練習と、B校への対策の練習を、半分ずつ取り入れよう」と思ってしまうのではないでしょうか。・・・で、結局、本番ではA校とB校の両方に負けて大会をむなしく去る、と。
部員たちには、「どちらかへの対策に集中すればよかったんじゃないか」とブーブー言われる。
「そんなことを言われても、二つのライバルのいっぽうへの対策を最初から捨てるなんて、そんな思い切った判断は難しいのだ!」、それが、あなたの言い分ではないでしょうか。
「仕事において大事なのは、一番やるべきプロジェクトに、できるだけ時間と人数を集中させ、やらなくても済む課題のほうは、おもいきって無視すること」。
これが、ビジネス理論でいう『選択と集中』の考え方です。もっとも、この「選択と集中」、実際には、なかなか、できるものではない。
ですが、先ほどの運動部の例で、トーナメント対策に悩むあなたの前にマネージャーが現れて、こんなことを言ってきたら、どうでしょうか?
「B校のことを調べていましたが、重要な情報をキャッチしました。監督と選手が大ゲンカをしているようで、練習のボイコット騒ぎになっているそうです。
今年のB校は実力を発揮できないと思われます。ここはA校への対策に、たっぷり時間を割きましょう!」
これは、助かるのではないでしょうか?
こんな情報をもってきてくれるマネージャーがいれば、あなたはもう、何でもかんでも相談したくなってしまうのではないでしょうか?
これが、私の想像する、曹操と郭嘉の良好な上下関係のカタチです。
郭嘉の業績をあらためて整理してみると
曹操軍の中でも「当代随一の軍略家」として、鳴り物入りで登場するキャラクターが、郭嘉。ですが、その郭嘉は、はやばやと病死して、物語から退場してしまいます。
三国志ファンの間でも、「そういえば、郭嘉って、何をした人だったかな」と、思い出せない人も多いのではないでしょうか?
あの曹操に「惜しい人材を失った!」と落涙させた人、という印象だけが残っているのではないでしょうか。そこでこの機会に、曹操から愛された人材、郭嘉の功績を、整理してみることにしました。
郭嘉は「選択と集中」理論を理解していた!
郭嘉には、三国志に登場する他の「知将」や「名軍師」のような、派手な活躍場面は、あまり、ありません。敵陣に遠大な火攻めをしかけて一発逆転したり、風向きを変えるパフォーマンスをしたり、そういった超人的なことは、しません。
ですが、彼のやったことを並べてみると、現代の会社でも重宝されるような、「情報通」「政略通」であったことが、彼の本質なのだと、わかってくる。郭嘉は「やらなくてもいいこと」を見つけ出し、トップに直言する人なのです。
・官渡の戦い最中に、「背後を孫策軍に衝かれるのではないか」と恐れていた曹操に、「孫策は人の恨みを買っているようだから、早晩、暗殺されるでしょう」と直言し、安心させた(そして、実際に、孫策は殺された)。
・「背後を劉表軍に衝かれるのではないか」と恐れていた曹操に、「劉表は小人物だから、そんな行動には出ないでしょう」と直言し、安心させた(そして、実際に、劉表は何もしてこなかった)。
・官渡の戦いの直後、公孫康の領土へ逃げ込んだ袁紹の息子たちについて、「無理に追わずとも、おそらく公孫康が彼らを裏切り、その首を我々に差し出してくるでしょう」と直言し、深追いを止めさせた(そして、実際、そうなった)。
官渡の戦いは、曹操の「一世一代の重要事業」だったわけですが、郭嘉はその戦いで直接戦うよりも、みんながその戦いに全力投球できるよう、情報収集や状況判断で貢献してくれていた、というわけです。
そのうえ、郭嘉の言うことは確かに当たるので、みんなも「郭嘉が言うなら大丈夫」と、安心するようになる。おかげで、みんなが、目の前のライバル、袁紹軍を潰すことに、集中できた。
そんな郭嘉こそ、官渡の戦いのMVPではないでしょうか。そして曹操も、おそらく周囲の軍師たちも、そのことを理解していたのではないでしょうか。
郭嘉が死んでも動揺しなかった曹操軍の組織力こそ、誉められるべき?
郭嘉が早世したときに曹操が流した涙は、おそらく、嘘の涙ではないでしょう。厳しい独裁者である曹操だけに、その境涯は孤独。彼の判断を助けて背中を押してくれる郭嘉のような人材は、もっとも愛すべき部下だったのでしょう。
ところが、よくよく考えると、曹操軍の真の強さが、ここで見えてきます。
これほどの人材である郭嘉が病気で急死した後でも、曹操軍の組織は特に揺らいでいない。曹操が珍しく落ち込んだくらいで、済んでしまっています。
孔明を失った後の蜀の凋落ぶりや、周瑜を失って陸遜を得るまでの間の呉の迷走ぶりを思い出すと、郭嘉を失った後の魏の落ち着いた対応は、なんと、贅沢な!
魏・呉・蜀と並べたとき、人材の豊富さという点で、魏が抜きん出ている印象を受けるのは、間違いない。もっとも、魏に仕える立場になってみると、つらいところもありそうです。
良くも悪くも完成された魏軍の中では、郭嘉ですら歯車の一部であり、早世した後を、別の人材がちゃんと埋めてしまいます。郭嘉くらいの人材が蜀や呉にいたら、伝説に残るほどチヤホヤされたはずなのに。そのかわり、蜀や呉では、それこそ死ぬほど過酷に働かされてしまうでしょうけれども。
三国志ライター YASHIROの独り言
自分が働くなら、魏・呉・蜀の、どのスタイルの組織がいいのか?
これは、考えてみると、なかなか難しい!
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