さて今回は孫堅について。それも孫堅の死因について、ちょっと見ていきたいと思います。
息子の孫策もですが、孫堅もまた駆け抜けるように三国志では退場した人物。間違いなく孫家の血筋だぁ……と思わせる、そんな人物でもあります。今回は孫堅の死因に触れていくとともに、孫堅を語る上で外せない「玉璽」にも触れていくとしましょう。
この記事の目次
孫堅の中国語読みは?
さてまずはちょっと皆さんにお聞きしたいのですが。そんけんって、どんな風に読んで……いいえ、呼んでますか?そう、孫堅はご存じ、孫策と孫権の父親です。で、これが文字にすると一目瞭然なのですが、息子と被ってしまっているんですよね。なので話の流れによってはややこしくなってしまうかもしれません……というのはもちろん、日本特有のお悩み。
中国語読みすると孫堅は「スン・ジエン」となり、孫権とは読み方が違うのです。なるほど、これならややこしくありませんね!因みに筆者は主に孫堅は「堅パパ」、孫権は「呉王様」と呼ぶことが多いです(豆知識)皆さんはどんな風に呼んでますか?
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うーん、間違いなく親子ですね!
そんな孫堅は若い頃から才気煥発でした。策略を持っての海賊退治に始まり、乱の鎮圧で自ら先頭に立って戦うようなタイプだったようです。武勇に優れていた孫堅はいくつもの軍功を立てます。が、その一方で敵も作っていたようで、董卓の度々の軍規違反に立腹した孫堅は、董卓を処刑するように張温に進言したという記録があります。
この一件で董卓は孫堅を恨んでいたとか。……こういうちょっと敵を作りやすい所、大将なのに先頭に立つ所、何だかんだ息子さんに受け継いだのでしょうね。
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孫堅の最期は?
かなり急ぎ足となりますが、ここで孫堅の最期に触れましょう。191年、孫堅は命を落とします。病死ではなく、横死でした。この時、孫堅は劉表の配下であった黄祖と戦うのですが、戦が始まると孫堅は良く黄祖を打ち破り、襄陽にて黄祖たちを包囲します。しかしその後、付近の山に孫堅が一人でいた所を黄祖の部下が射殺します。37歳という早すぎる退場でした。
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孫堅の死因は、息子である孫策の死因にも繋がるのでは?
孫堅の死因は射殺、暗殺に近いものとも言えるでしょうか。ここで思い出して欲しいのが、孫堅の子である孫策の死因です。孫策もまた、陳登討伐に向かったが途上で狩りの最中、単騎でいた所を孫策に恨みを持っていた許貢の残党に襲われてのものです。
思うのは、孫堅も孫策も、志半ばで倒れたのは残念とは言え……ちょっと油断しすぎじゃないでしょうか?どうにも受け継がなくていい所が受け継がれている節がありますね……呉王様はそのようなことがないように万全の注意を払って欲しいものですな!
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そういえばどうなったの?玉璽の秘密!
さて孫堅を語る上でちょっと話しておきたいのが、玉璽。伝国璽ですね。因みに玉璽と呼ばれるように、その材質は玉、翡翠です。しかし印によって材質は玉、金、銀、銅など、様々なものが使用されていたようです。これは伝の注釈によるものですが、呉書によると洛陽で拾ったとされています。
その後は山陽公載記によると孫堅の妻から袁術が奪い取ったとされます。裴松之先生によると「孫堅みたいな忠義の士が玉璽をパクるわけねーだろ!!」とのことですが……実はその後、子の伝国璽は行方不明になってしまいます。真実がどうであったのかは、残念ながら不明です。
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もしかしてその玉璽、呪われているんじゃ……?
さてここで三国志演義のお話を。三国志演義でも、孫堅は洛陽で玉璽を拾います。そしてこれを隠匿しようとするのですが、これについてとがめを受けた孫堅は「もしも私が玉璽を隠匿していたなら、命を全うすることなく戦禍によって死ぬ事になるだろう」と見事なフラグ誓いを立て、やはり横死を遂げます。
その後、この玉璽は孫策から袁術に献上され、これに調子に乗った袁術は……まあ、色々あって命を落とします。三国志演義なので読み物としての演出だとは思いますが、それでもこの玉璽……呪われてるんじゃ?と思ってしまいますね。
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孫堅の遺体と、一つの忠義
では最後に、横死を迎えた孫堅の話に少しばかり続きを。孫堅と劉表配下、黄祖の戦いは、当初こそかなり孫堅が押していました。しかし前述したように、孫堅はよりにもよって一人でいた所を射殺されてしまいます。これにより孫堅軍は瓦解し、撤退することになってしまいました。
この時に動いたのが、桓階です。嘗て桓階は孫堅に推挙され、尚書郎として努めていました。しかし孫堅と黄祖の戦いの際には、父親が亡くなったことで故郷に帰って喪に服していたのです。孫堅の死を聞くと桓階は嘗ての恩に奮い立ち、自らの危険も顧みず劉表に孫堅の遺体の引き取りを願い出ました。劉表はこの行為を義であると判断し、孫堅の遺体は無事に桓階から遺族に引き渡されたということです。そんな義のお話でした。
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三国志ライター センのひとりごと
さて義を見せた桓階ですが、その後は魏に仕えることになります。このためか……実は三国志演義では桓階、あまりいい印象を与える人物ではありません。その先はどうか皆さん、ご自身でご確認くださいませ。ともあれ孫堅、間違いなく死因までも孫策の父親だなぁ……と思わせる人物。
孫策も孫策で、孫堅の息子だぁ……と思うので、血筋って面白いですね。それではこれにて、どぼん。
参考:呉書孫破虜討逆伝 魏書桓階伝
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