乱世の奸雄と呼ばれた曹操。彼の若い頃の戦いぶりはそれはもう素晴らしかったと言います。ところが、中盤の曹操は何かと窮地に立たされることが多く、「この人途中で退場しちゃうんじゃないの…」と読者をヒヤヒヤさせるチャーミングな一面も。
チャーミングなんて茶化すことができるのは曹操が不死鳥のごとく何度も蘇るからなのですが、彼が何度も息を吹き返すことができたのは、曹仁という優秀な臣下がいたからに他なりません。今回は常に曹操に付き従い、ピンチから曹操を救い続けた曹仁にスポットライトを当ててみましょう。
この記事の目次
曹操と血は繋がってないけれど
同じ曹姓である曹操と曹仁ですが、両者に血のつながりはありません。ただ、形式上彼らはまた従兄弟の関係にあります。なぜ形式上であるかというと、曹操は後漢時代に活躍した高名な宦官・曹騰の養子の子であり、曹仁は曹騰の兄の孫。
ちょっと複雑でわかりにくいのですが、曹操は父が曹騰の養子にもらわれていなければ曹氏ではなく夏侯氏であったために実際には曹氏の血を引いていなかったというわけです。それでも、夏侯氏は曹氏と縁のある家系だったそうなので曹操と曹仁もちょっとくらいは血のつながりがあったのかもしれません。
曹仁、後漢の動乱に乗じて暴れまくる
黄巾賊が暴れだした頃、各地で群雄たちがその産声を上げました。その中には曹操や劉備もいたわけですが、その頃に曹仁が何をやっていたかといえば、1000人近くのならず者を集めてヒャッハー!黄巾賊の動乱のビッグウェーブに乗って淮水・泗水のあたりで大暴れしまくっていたそうな…。しかし、そんな曹仁も同族である曹操と出会って心を入れ替え、曹操のために働くことになったのでした。
及び腰になった曹操軍を鼓舞
その後は曹操のもとで袁術や陶謙、呂布といった強敵を蹴散らしてきた曹仁ですが、ある時、未亡人の色気にあてられてふぬけになった曹操が窮地に追い込まれる危機的状況に陥ります。叔父嫁を奪った曹操を怨んだ張繍によって真夜中に奇襲を仕掛けられてしまったのです。火の海の中を情けなく逃げ惑う曹操軍。そんな中、曹仁だけは張繍軍に追撃されてすっかり意気消沈している味方を励まして大奮戦し、ついには張繍を破って見せたのでした。
赤壁の戦いのリベンジを果たす
その後も劉備や袁紹を破るなど華々しい活躍を見せた曹仁ですが、彼は赤壁の戦いで辛酸を嘗めさせられた呉の周瑜への復讐をも遂げています。赤壁の戦いの勢いに乗って荊州に攻め入ってきた周瑜。曹仁は牛金に300ほどの兵を与えて戦わせましたが、牛金は周瑜の軍勢に囲まれてしまいます。
これを見た曹仁は激怒してたった数十騎で周瑜の軍勢に突撃!牛金と預けた兵たちをあっという間に救出して見せたのでした。この戦いは1年以上続いたのですが、曹仁は周瑜に矢傷を負わせることに成功します。矢傷と言っても傷は深く、周瑜はその後しばらく痛みに苦しむことに。結局江陵は奪われてしまったものの、曹仁は赤壁での大敗をチャラにするくらいの戦いぶりを見せたのでした。
関羽を追い詰める
その後も馬超を潼関の戦いの戦いで破ったり蘇伯・田銀による河間での反乱を鎮圧したりと大活躍して見せた曹仁ですが、人生最大とも言える修羅場にぶち当たります。
なんと侯音・衛開の2人が関羽を内通して派手に反乱を起こしたのです。侯音・衛開の2人だけならまだしも関羽が出てきたものだからさぁ大変。その上、何日も豪雨が続いて漢水が氾濫し、味方はほぼ壊滅状態に陥ってもう降伏しか考えられない状態になってしまいます。
ところが、曹仁は決して諦めませんでした。曹仁は樊城に援軍が到達するまで味方を鼓舞し、関羽の猛攻を防ぎ切り、ついに関羽を撤退させることに成功したのです。この曹仁の粘りが関羽の死の原因となったと言っても過言ではありません。
数々の功績を称えられて曹操と共に祀られた
魏の将軍たちの中でも目覚ましい活躍を見せた曹仁は56歳で亡くなります。曹仁は後に魏の功臣の中でも特に戦功が高い者として称えられ、曹操と共に祀られることになりました。曹仁もあの世で喜んでいたことでしょう。
三国志ライターchopsticksの独り言
魏の猛将といえば張遼や夏侯惇の名が挙げられますが、曹仁も負けず劣らず素晴らしい将軍でした。『三国志演義』では情けなく描かれている曹仁ですが、実際は蜀や呉にとって強敵とも言える存在だったに違いません。曹仁が居なければ曹操はその野望を叶えることもできずに途中で野垂れ死んでいたということも十分に考えられます。曹仁がいたからこそ曹操は魏の礎を築き上げることができたのでしょう。
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