有名な赤壁の戦いにおいて、劉備軍と孫権軍は手を組み、強敵である曹操軍を撃退することに成功します。この時に大活躍をしたのが、劉備軍では諸葛亮孔明、そして孫権軍では周瑜でした。しかし直後、その周瑜が急逝するという事件が起こります。
この周瑜の急死について。一般的には劉備側から見ると「幸運だった」とされているようです。というのも、赤壁で勝利を収めた後、劉備軍と孫権軍とは、強敵曹操軍が後退した後の荊州という土地にそれぞれ攻め込み、それぞれの勢力圏の拡大を行いました。
ここで荊州方面攻略を指揮していた孫権軍の指揮官が、周瑜。その周瑜が急逝してくれたおかげで、劉備軍は安心して荊州を自らの領土とし、さらには、その荊州を足掛かりにして益州にまで攻め込み、蜀国を建国できた。
周瑜が絶好調で荊州や益州の領土獲得競争に割り込んできていたら、こんなにスムーズにはいかなかったろう。というわけです。ですが、今回はこの通説に、あえて逆らってみたいと思います。本当に、周瑜は劉備軍にとって邪魔な存在だったのでしょうか?
この記事の目次
周瑜が劉備軍にとって邪魔者なのは『三国志演義』の視点で見た場合のみ?
ここでさっそく、以下のような異論があるかもしれません。「いや、やはり周瑜は劉備軍にとって邪魔な存在だったろう。というのも、赤壁の戦いの後の周瑜は、諸葛亮のことをライバル視し、常に諸葛亮との間でバチバチと火花を散らす駆け引きをしていた」と。ですが、このような「周瑜は孔明を感情的なまでにライバル視していた」という視点は、物語として編纂された『三国志演義』から生まれたイメージです。
『三国志演義』は劉備びいきな物語なので、単にこの時期、周瑜が病気で偶然亡くなったとするよりも、「諸葛亮を憎み争ったが、どうしても諸葛亮に一歩及ばす、そのことがストレスになって亡くなった」としたほうが、面白いですからね。
正史における周瑜が目指していたのは荊州よりも益州だった?
では、より史実に近いとされている『正史三国志』では、周瑜はどのような描かれ方をしているのでしょうか?
ざっと正史を詠んだ印象としては、周瑜は、特に劉備や諸葛亮の思惑のことは気にせず、純粋に孫権軍にとって常に最善の戦略を冷静に選択して行動しているように思います。諸葛亮を憎んで感情的になるような人物ではなく、きわめて合理的な戦略家というイメージです。ということは当然、「劉備が孫権にとって良い同盟者」である限りは、周瑜は協力的な言動をするものと予想します。
また、正史における周瑜の伝記には、意外なことが書かれています。周瑜は、「荊州平定に目途が立ち、益州攻略への準備をしている際に、病気で急逝した」とあるのです。つまり、周瑜がもし長生きしていたら、孫権軍こそが益州へ攻め込んでいたということになります。これは「ゆくゆくは益州を占領して蜀国を建国したい」という夢をもっていた劉備陣営にとっては邪魔な動きだったのでは?
こんな周瑜の行動が成功したら、せっかくの「天下三分の計」は、「天下二分の計」にされてしまいますからね。やはり、正史の記述を見ても、周瑜の存在は劉備軍には邪魔、このタイミングで急逝してくれてよかった人物だったのでしょうか?
こちらもCHECK
-
あの甘寧が? 天下二分の計を唱えた三国志一の海賊王
続きを見る
実際の周瑜の構想は「劉備と協力して益州に攻め込む」だった可能性が!
ですが、本当にそうでしょうか?周瑜がこのプラン通りに益州に駒を進めたとしましょう。実は、微妙な問題が出てくるのです。
赤壁の戦いが終わったあと、劉備も孫権も、曹操軍の影響力がなくなった荊州に攻め込んだというのは、先述の通り。ですが正史を読むと、そもそも孫権は劉備に兵力の一部を貸し与えてまで、荊州攻略を「一緒に」進めているのです。
劉備が荊州で拠点を作って行くことを、孫権は「同盟相手が自分の拠点を持つのはよいことだ」と許していた模様?だとすると、周瑜の益州攻略についても、問題が出てきます。荊州に劉備の拠点が完成した、その状態のまま周瑜が益州に攻め込んだら、もし劉備が突然寝返りでもしたら、背後をとられた周瑜軍は大ピンチです。ですが、周瑜がそのことを心配している形跡はありません。となると、恐らく、こう言えるのではないでしょうか?
史実におけるこの時期の劉備と孫権は、「大真面目な同盟者どうし」だったのだと。だとすると、周瑜の益州攻めも、見方が変わってくるのでは?むしろ、荊州と同じように、劉備軍との間に兵力の貸し借りを行いながら、劉備にも協力してもらいつつ、益州に攻め込むのが周瑜の真意だったのではと。
おそらく周瑜としては、劉備との同盟関係を重視しつつ益州を攻略し、その後、劉備との交渉で、荊州と益州の割譲を相談するつもりだったのではないでしょうか。孫権軍とて、単独で曹操軍と国境を接するのは望んでおらず、劉備に益州ないし荊州の一部を与えて、曹操軍との干渉国になってくれたほうが、どう考えても孫権軍は安泰です!
こちらもCHECK
-
どうして孫権は劉備に荊州を貸したの?荊州問題を再整理してみる
続きを見る
【奇想天外な夢の共演が実現 はじめての架空戦記】
まとめ:そもそも当時の情勢からすれば周瑜の判断はこの一択だった筈
そもそもこの時期の劉備と孫権は、一強である曹操に対して二番手と三番手の立場。カードゲームで、誰かが一番で「アガリ」になりそうなときは、二番手と三番手は徹底して手を組んで一番手の「アガリ」を妨害することが必然的なのと同じ。劉備と孫権が「曹操に天下を渡したくない」というならば、荊州と益州はどう考えても、協同戦線で獲り、その後も常に同盟関係維持が最適だったと思います。
こちらもCHECK
-
荊州を守っていたのがもし関羽ではなく趙雲だったら蜀は有利になっていた?
続きを見る
三国志ライターYASHIROの独り言
周瑜が本当にこの時代きっての才人であったというならば、このような長期的な戦略眼をもって、呉蜀の徹底協力路線を推進していたのではないか。つまり、周瑜が長寿だったら劉備の蜀にとっても有利だったのではないか。
つまり益州攻略も、「大真面目な同盟」として、あくまで劉備軍と周瑜率いる孫権軍がタッグを組んで行うという夢のシナリオがあり得たと思うのですが、これは周瑜ならばそれくらいの遠大なことを考えていた筈だと前提してまう、「周瑜びいき」でしょうか?
こちらもCHECK
-
周瑜の性格は人心を掴むことを得意だった?慎重な性格だった周瑜の心理を考察
続きを見る