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潼関の戦い、その発端と目的!歴史が語る[衝撃]の経緯

2024年2月26日


馬騰

 

潼関(どうかん)の戦いとは、西暦211年に発生した関中軍閥(かんちゅうぐんばつ)曹操(そうそう)との戦いです。両軍とも10万以上の軍勢を繰り出した規模が大きな会戦であり、曹操も反乱を平定するのにかなりの苦戦をしました。

 

はじ三倶楽部 スマホの誤変換でイライラする参加者(はてな)

 

しかし、この戦い、史書の書き方のせいか幾人もの武将が入り乱れ、なんとも内容が分かりにくくなっているのです。そこで、はじめての三国志、9月の潼関の戦いスペシャルでは、潼関の戦いの経緯と、目的と原因を簡単に説明致します。

 

 

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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潼関の戦い原因

潼関の戦い原因

 

潼関の戦いの原因は、馬超をボスとする関中軍閥がその独立性を曹操に奪われる事を怖れた事によります。西暦192年、長安を陥れた李傕(りかく)郭汜(かくし)は物資が足りなくなると長安周辺で大規模な略奪を行い、住民の大半は漢中や益州に逃げていきます。当時、益州には劉焉(りゅうえん)が、漢中には張魯(ちょうろ)がいて流民を吸収する事で勢力を拡大しますが関中と呼ばれた地域にいた軍閥達も、流民を取り込んで強大化しました。

 

一方で関中軍閥は曹操と組む事で自立を維持していましたが、その曹操が自分の支配に服さない漢中の張魯を討伐しようとします。実は関中軍閥と張魯は親密な関係にあると言われ、張魯が曹操に下る事になるとこれまでの緊密な関係がバレ、曹操の猜疑心(さいぎしん)が自分達にも向かう事を馬超等は危惧し、異民族の軍勢も巻き込んで蜂起したのです。

 

 

 

潼関の戦い関中軍閥の目的

潼関の戦い関中軍閥の目的

 

 

では、反乱を起こした馬超等、関中軍閥の目的は何でしょう?曹操を滅ぼして中華統一を狙ったのでしょうか・・いえ、彼らの目的はもっと小さいものでした。それは、潼関の戦いが膠着(こうちゃく)状態になった時の和睦の条件に出ています。

 

”黄河の西の領土を割譲して自分達に保障せよ、叛かない誓いとして人質を送り届けよう”

 

つまり潼関より西、長安を含めた土地を今まで通り、自分達軍閥に治めさせ干渉しないでくれというものです。もちろん、統一国家を志向する曹操が自分の命令に服さない土地を認めるわけもなく、彼らの願いは却下される事になります。

 

 

 

潼関の戦い経緯

潼関の戦い経緯

 

潼関の戦いを理解する上で大事なのは3回あった黄河の渡河(星印)です。曹操軍は、馬超と韓遂(かんすい)の連合軍を破る為に、狭い潼関ではなく、黄河を超えて西に向かう必要がありました。

 

潼関の戦い経緯

※地図は大雑把です

 

また、曹操軍は兵糧の補給を遠く河東郡に頼っており食糧に余裕がない状態です。渡河に手こずると退却するしかなく、再び戻ってくる間に関中軍閥が、どれほど増加するか見当もつかない状態にありました。そこで、曹操は徐晃(じょこう)朱霊(しゅれい)を密かに渡河させて、蒲阪津(ほはんしん)を西に越え、梁興(りょうこう)を破り、そこに拠点を造ります。

 

 

 

次に曹操が全軍を率いて、潼関から北に黄河を越えようとしますが船が岸を離れる前に馬超の攻撃を受けて危機に陥ります。この時、丁斐(ていひ)は牛馬を放って馬超軍の意識を曹操から逸らし、許褚(きょちょ)は船に取り縋る兵を斬り、船頭が死ぬと自ら船を漕ぎ、馬の鞍を盾代わりにして曹操を守り、とうとう曹操を渡河させます。

 

騎兵の突撃に懲りた曹操は、ここから兵車を横倒しにして左右に木柵を設けて補強した甬道(ようどう)を(黄色点線)つくりながら、蒲阪津を越え、そのまま南下して渭水(いすい)のほとりまで到着します。甬道は敵騎兵の攻撃を防ぎ、補給路を確保する方法として非常に役に立ちました。

 

渭水を渡った辺りで曹操軍に背後を取られた馬超は、和睦を持ちかけてきますが、曹操は受け入れたふりをして履行はせず、韓遂と馬超の仲を裂いて関中軍閥を崩壊させます。最後の戦いでは、曹操は軽装兵で関中軍を相手にしつつ、途中で騎兵を投入して関中軍を挟撃して大破し成宜(せいぎ)李堪(りかん)を斬りついに馬超と韓遂は西涼に敗走しました。

 

 

三国志ライターkawausoの独り言

三国志ライターkawausoの独り言

 

潼関の戦いで関中を直轄支配に組み込んだ曹操は後に起きる蜀との北伐戦を有利にしたと言えるでしょう。長安には夏侯淵(かこうえん)が駐屯し、引き続き西に睨みを効かせますが馬超が再起に失敗すると、そこまで大きな反乱は起きなくなります。もし、関中軍閥が温存されていたら、諸葛亮(しょかつりょう)の北伐は起きる度に魏に大変な脅威を与える事になったと思います。

 

 

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kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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