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曹操の寵愛を一身に!環夫人の控え目な[子育て術]

2024年6月16日


曹真を引き取り養う曹操 +曹丕

 

三国志』随一の女好きともいえる曹操(そうそう)は、たくさんの女性を妻に迎え、多くの子を設けました。その中でも異彩を放っていたのが(かん)夫人です。彼女が他の夫人と一線を画す理由とは?今回は環夫人について紹介したいと思います。

 

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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大虐殺の最中見出された環夫人

キレる曹操

 

黄巾賊(こうきんぞく)を蹴散らし、メキメキと力をつけていった曹操。そんな彼が袁紹(えんしょう)と手を組み、袁術(えんじゅつ)公孫瓚(こうそんさん)と争っていた頃に、とある事件が起こります。なんと、陶謙(とうけん)によって、父・曹嵩をはじめとする一族を皆殺しにされてしまうのです。

 

読書を陶謙に邪魔された曹操

 

 

これに怒り狂った曹操は復讐を決意し、50万の兵を率いて徐州に襲い掛かります。川には何十万もの死体が転がり、鶏や犬の鳴き声さえも聞こえなくなってしまったという徐州。環夫人はこの大虐殺の最中に曹操の側室として迎え入れられました。

 

 

 

3人の男児を授かる

曹沖

 

環夫人は曹操との間に曹沖(そうちゅう)曹據(そうきょ)曹宇(そうう)の3人の男児を授かります。この3人はいずれも出来が良く、その中でも曹沖は曹操に溺愛されていました。

 

 

将来を嘱望された曹沖

曹沖が亡くなり悲しむ曹操

 

あの曹丕(そうひ)を差し置いて曹操が後継者にしたいと考えていた曹沖。彼は呉から送られてきた象の重さのはかり方を5歳にして答えて見せるなど、大人顔負けの知恵の持ち主でした。しかし、彼が特に優れていたのは知力だけではありません。その仁徳の高さこそが、彼が曹操に愛された所以だったのです。

 

ある日、曹操が大切にしていた(くら)が鼠に食い破られてしまい、激怒した曹操は倉庫番を罰しようと息巻きます。その頃、鼠にものを食い破られることは不吉とされていたのです。これを見ていた曹沖は急いで倉庫番の元に走り、倉庫番に3日後に自首するように伝えて、自らの服に穴を開けます。

 

鼠にかじられて服に穴があいたという曹沖を見て曹操は着ている服までかじられるのだから、倉庫に置いてある鞍が鼠にかじられても仕方がないと倉庫番を咎めるのをやめたと言います。それほど縁の深くない家臣までかばう徳の高い曹沖は曹操だけではなく多くの家臣たちから将来を嘱望(しょくぼう)されていました。しかし、13歳という若さで世を去ってしまいます。曹操は小馬鹿にしていた加持祈祷(かじきとう)にも手を出すほど曹沖を死なせまいと奔走しましたが、それでも愛する息子の命を救うことはできませんでした。

 

 

なんだかんだで安寧の日々を送った曹據

魏の皇帝になる曹丕

 

いよいよ魏が建国され、曹丕が皇帝として君臨。

後継者になれて喜ぶ曹丕と落ち込む曹植

 

曹丕は大嫌いな弟・曹植(そうしょく)をチクチクといじめて遠くに追いやったり、曹熊(そうゆう)にもチクチク攻撃をして自殺させたりと兄弟に優しくないことで有名ですが、曹據はわりと配慮してもらえたご様子。曹丕の計らいで母・環夫人の故郷である彭城郡(ほうじょうぐん)の王に封ぜられたこともありました。

 

曹叡

 

その後、曹丕や曹叡(そうえい)の気まぐれで各地を転々とした曹據でしたが、最終的にはやはり彭城王に落ち着きます。乱世を生きたわりには平和に暮らせた方なのではないでしょうか。

 

 

明帝の心の友・曹宇

曹宇

 

曹宇は甥にあたる曹叡(明帝)と年が近かったこともあり、幼いころから大変仲がよかったそうです。そのため、曹叡が皇帝の位につくと曹宇はますます寵愛を受け、ついには中央に召し出されます。いつもよくしてくれる曹叡に曹宇は常々恩を感じていたました。

 

ある日、曹叡が病に倒れてしまいます。これを知った曹宇は毎日のようにお見舞いに訪れました。曹叡は自分の死を予見し、曹宇に中心となってもらい、次期皇帝である曹芳(そうほう)の世話をしてもらいたいと曹宇に頼みます。ところが、曹宇は自分にそんな力量は無いと断ります。

 

司馬懿

 

それを聞きつけた劉放(りゅうほう)らが横やりを入れてきて、曹爽(そうそう)司馬懿(しばい)に曹芳の世話を任せるべきだと主張。曹叡はこれを受けて悩みに悩むのですが、結局劉放らの提言に乗っかり、曹宇を中央から遠ざけてしまったのでした。それでも曹宇は中央から大切に扱われていたそうです。

 

 

 

環夫人の教育の賜物

環夫人の教育の賜物

 

早逝(そうせい)してしまったものの曹操に愛された曹沖や、慎ましく賢く生きた曹據・曹宇といった3人の息子に恵まれた環夫人。乱世にありながら無欲に謙虚に生きた彼らの性格は、環夫人だからこそ育むことができたのでしょう。そんな環夫人の孫である曹奐(そうかん)は後に皇帝をつとめています。曹奐は元々司馬家の傀儡(かいらい)皇帝のようなものでしたが、環夫人譲りの欲の無さで、静かに時代を譲った賢人でした。

 

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はじめての三国志 編集部

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