呉の武将といえば甘寧。その荒々しい戦いぶりは、『三国志』に登場するどの武将にも引けを取りません。そんな勇猛果敢な甘寧ですが、彼は武才だけの男ではなかったようです。
任侠ヤクザ・甘寧
益州に住んでいた甘寧は若いころから任侠の世界に憧れを抱いていました。弱きを助け強きをくじくそんな志を持っていた甘寧。そこで、世間から爪弾きにされたならず者たちを集め、今でいうところの暴力団のような組織を結成します。彼らは羽飾りがあしらわれた派手な衣装を身にまとい、シャンシャンと鈴を鳴らしながら肩で風を切って歩いていたそうな。
彼らは高い位についている人に絡んでは、自分たちをもてなすように命じました。そして、それを断ったり、自分たちを無下に扱ったりした者からはその財産を強奪していきました。逆に自分たちのような無頼者でも丁重にもてなしてくれた者には義を尽くしました。天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らずなどと福沢諭吉のようなことを考えていたのでしょうか。
また、自分たちの縄張りで犯罪が起これば、犯人を見つけ出して制裁して回るなど、義賊的な側面もあったようですね。このように、1つの信念の元、暴れに暴れまくっていた甘寧ですが、あるとき突然活動をやめてしまいます。
真の主君を求めて旅立つ
ヤクザをやめた甘寧は、今度は学問の世界にのめりこみます。極端から極端に走るのが何とも甘寧らしいですね。書を読みふけり、世の不条理を憂いた甘寧はこの乱れきった世をどうにかしようと志します。そんな時、劉璋が益州の長官となります。劉璋は父親から受け継いだ東州兵が民草を害しても取り締まることができず、民草たちは劉璋への不平不満を募らせていきました。憤りを覚えた甘寧は劉璋を討ち取ろうと反乱を起こします。
ところが、精鋭部隊である東州軍が相手では寄せ集め集団の甘寧たちは歯が立ちません。甘寧は命からがら荊州に逃げ延びたのでした。劉表の元に身を寄せた甘寧でしたが、劉表は元ヤクザの乱暴者として有名だった甘寧に知性を見出せず、甘寧を任用することはありませんでした。甘寧は自分の才を見出すことのできない劉表を大事を成す器ではないと見限り、自分にふさわしい主君を探すために別天地を求めて江東に移ろうと考えます。
しかし、その道は黄祖に阻まれてしまいます。暗礁に乗り上げた甘寧は結局そのまま黄祖の配下に…。黄祖の元で孫権軍を相手に互角以上の力でわたり合い、黄祖の危機を救ったり、敵将を討ち取ったりと華々しい活躍を見せた甘寧でしたが、黄祖は甘寧を冷遇し続けます。そんな黄祖の元から一刻も早く脱出したい甘寧でしたが、黄祖に多くの人材を引き抜かれて力を失い、長い間足踏みをさせられることになってしまったのです。
助け船を得て、孫権の元へ
不遇な甘寧をいつも憐れんでくれている人がいました。それが蘇飛です。蘇飛は甘寧の非凡さを見抜き、黄祖に何度も甘寧を重く用いるように進言します。しかし、天邪鬼な黄祖はさらに甘寧を冷たくあしらいました。それでも何とか甘寧を助けたいと考えた蘇飛は一計を案じます。甘寧を邾県長に就かせたのです。蘇飛のおかげで黄祖軍を抜けることができた甘寧は、力を蓄えてから孫権の元へ走ったのでした。
天下二分の計を進言
甘寧は周瑜と呂蒙からの推薦を得て、孫権にあたたかく迎えられます。孫権が甘寧にどのような展望を持っているかを訪ねると、甘寧は次のように答えました。「まずは荊州を手中に収めましょう。それから、益州を攻め落とし、力を蓄えた上で曹操を討ち取り、天下を1つに統一いたしましょう。」いわゆる天下二分の計を唱えたのです。
孔明も天下三分の計を唱え、魯粛も似たような論を展開したと言いますが、どちらも智謀に長けた将軍。武将である甘寧が名高い智将たちと同じような論を提唱したのには驚きですね。
この荒唐無稽ともとれる主張に呉の重鎮・張昭は苦言を呈しますが、甘寧は弁舌をふるって堂々と反論します。これを見ていた孫権は、甘寧が武才だけの男ではないことを悟り、甘寧に心を寄せたのでした。
甘寧の機転
甘寧は戦のときもその才知を光らせます。『三国志演義』には次のようなエピソードが。曹操が濡須に侵攻した際、甘寧は曹操軍に夜襲を仕掛けることにしました。闇夜に乗じた奇襲作戦は、相手に大きな打撃を与えることができるものの、暗闇の中で敵味方の区別がつかなくなってしまい、味方にも被害が及んでしまうのが玉に傷でした。
ところが、甘寧は妙案を思いつきます。味方の兵全員の帽子にガチョウの羽をつけさせたのです。これにより甘寧は同士討ちを防ぎ、味方を一人も失わずに曹操軍を破ることに成功。武だけではなく智にも富んだ甘寧は、自分に見合った主君の元で、大躍進を遂げたのでした。
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